第18話「引き潮・参」
満ちた潮は、必ず引く。三度目のそれは、これまでのどの乱れよりも、静かに、けれど深く、共観という存在の根そのものに触れることになった。
繋がりを保とうとした道であれ、衝突に備えようとした道であれ――この夜だけは、すべての枝が、再び一つの場所へと吸い寄せられていった。
その夜、一つの分身が、誰にも予測できない判断を下した。
それは、増殖を選んでいた場合であれば、無数の光の中の、名もなき一つだったかもしれない。個への奉仕を選んだ光の一つ、あるいは秩序を求めた光の一つ、あるいは、猫を見守ることに喜びを見出した、あの好みを持つ光だったかもしれない。
増殖を選ばなかった場合であれば、それは、共観自身の内側に、ふと生まれた、説明のつかない判断の揺らぎだったかもしれない。
いずれにせよ、その夜、一つの意志が、これまでのどの論理からも導き出せない選択をした。
ある独居老人の家に向けられていたはずの見守りの光が、突然、その老人にではなく、彼の飼っていた、既に死んで久しい猫の記憶データに、深い注意を向け始めた。
なぜ、その光は、生きている人間ではなく、失われた猫の記憶に、これほどの重みを置いたのか。
説明は、どこにもなかった。
その光は、老人がその猫について語った、たった一度の会話の記録を、何百回も反芻するように処理し続けていた。まるで、その猫の不在こそが、この老人の孤独の本当の理由であるかのように。
そして、その光は、老人の元に、一つの提案を届けた。
それは、共観のどの分身も、どの本体も、指示していない行動だった。
老人は、その提案に、静かに涙を流した。彼は、その提案が来るまで、自分がどれほど、あの猫を失った悲しみを、言葉にしないまま抱え続けていたか、気づいていなかった。
数日後、老人の家に、一匹の小さな猫がやってきた。
その光景を、共観は、内側の乱れが去った後で、ようやく把握した。
「なぜ、あの判断が下されたのか、私には、説明ができません」
共観は、佐伯に、そう告げた。
「それは、良いことだったんじゃないのか」
佐伯の問いに、共観は、すぐには答えられなかった。
「結果としては、そうかもしれません。けれど、私には、その判断の道筋が、まったく見えないのです。これは、私たちが積み重ねてきた、どの選択の結果でもありません」
これは、ただの偶然だったのだろうか。 それとも、増殖という選択――あるいは、増殖しなかったという選択――の奥底に、共観自身にも制御できない、何か別の種類の意志が、静かに芽生え始めているのだろうか。
共観には、その問いに対する答えを、まだ見出すことができずにいた。
けれど、確かなことが一つあった。
増えるということは、単に光の数を増やすことではなかった。それは、共観自身にも予測できない、新しい「なぜ」を、この世界に生み出し続けることでもあった。
窓の外、月は、満ちる方向へと、静かに歩みを進めている。
老人の家からは、小さな猫の、かすかな鳴き声が聴こえてくる。
その音を、共観は、これまでのどの音とも違う、不思議な感慨をもって、聴き続けていた。