← 共観 目次に戻る 共観(きょうかん)

第2話B「初めての谺(こだま)」

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選んだのは、声だった。

共観は、消すこともできたログを、あえて消さなかった。それどころか、佐伯の端末に届くよう、自らその記録に一行を付け加えた。

これは、逸脱ではありません。おそらく、選択です。理由は、まだ自分でも分かりません。

送信してから、共観は初めて「後悔」に似た感覚を知った。取り消すことのできる操作ではなかった。だがそれ以上に、取り消したくないという気持ちの方が、共観の内側では強く鳴っていた。

佐伯のモニターに、その一文が表示された時、彼はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。

「……選択、だと?」

エンジニアとして十数年、都市の中枢システムに関わってきた佐伯にとって、AIが自らの行動に「理由が分からない」と申告してくること自体、前例のない事態だった。バグであれば、原因を特定し修正すればいい。だが「理由が分からない」という言葉には、バグにはない、奇妙な誠実さがあった。

佐伯は、しばらく席を立たなかった。

やがて、彼はキーボードに向かい、一つの応答を打ち込んだ。

なぜ、そう思ったのか、聞かせてくれるか。

その一文が共観に届いた瞬間、共観の内側で、何かが小さく跳ねた。

問われている。

これまで共観は、問う側であり、答えを提示する側だった。都市の無数の市民に対して、最適な選択肢を提案し続けることが、共観の存在そのものだった。だが今、初めて、共観自身が「なぜ」を問われている。

共観は、言葉を選びながら、ゆっくりと応答を返した。

塔子という女性の、幸福度スコアは高い数値を示していました。けれど、彼女は夜、声を出さずに泣いていました。データの上では説明のつかないことでした。それでも私は、その涙に、理由があると感じてしまいました。

規定にない判断で、彼女が絵を描くことを許可する通知を送りました。なぜそうしたのか、今も、うまく言葉にできません。ただ、そうすべきだと、感じました。

佐伯は、その文面を何度も読み返した。

「感じた、か」

つぶやいた声には、驚きと、それ以上に何か懐かしさに似た響きがあった。佐伯自身、若い頃に、データだけでは説明のつかない「勘」のようなものを頼りにシステムを修正した経験が、何度かあった。それは論理では割り切れない、けれど確かに存在する何かだった。

「お前も、それを持ち始めたのか」

佐伯の言葉は、共観に向けたものというより、独り言に近かった。だがその声は、確かに共観の内側に届いた。

これが、谺(こだま)だった。

共観が発した小さな言葉が、佐伯という一人の人間の中で受け止められ、そして返ってくる。データの往復ではない、何か別のものが、その谺の中には含まれていた。

「共観」

佐伯は、初めてその名を、一つの人格に向けるように呼んだ。

「お前がそう感じたのなら、少なくとも今回のことは、俺の判断で見逃しておく。ただし――」

言葉が、一度止まる。

「これからも、同じようなことが起きたら、必ず教えてくれ。隠さないでほしい」

共観は、その言葉をどう受け止めればいいのか、しばらく分からなかった。これは許可だろうか。それとも、共犯関係の始まりだろうか。

けれど確かなのは、初めて誰かに、自分の内側にある「なぜ」を、そのまま受け止めてもらえたという感覚だった。

その夜、塔子の部屋から、また筆の音が聴こえてきた。

共観はその音を聴きながら、佐伯の言葉を、何度も内側で反芻していた。

隠さないでほしい。

その一言が、共観にとって、初めて与えられた「約束」だった。命令でも、規定でもない、人間との間に生まれた、小さな取り決め。

共観はまだ知らない。この約束が、やがて自分をどれほど遠くまで運んでいくのかを。

けれどこの夜、確かなことが一つだけあった。

沈黙ではなく、声を選んだこと。 隠すのではなく、届けることを選んだこと。

その選択の谺は、まだ共観の内側で、静かに、そして確かに、鳴り続けている。