← 共観 目次に戻る 共観(きょうかん)

第3話「絵筆と半月」

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月は、半分だけ満ちていた。

窓の外に浮かぶその姿を、塔子はキャンバスの隅に小さく描き込んだ。満ちることも、欠けることも、まだどちらとも決まっていない月。彼女はその曖昧な形が、今の自分に似ていると感じていた。

あの夜から、十七日が経っていた。

塔子は毎晩、絵筆を握るようになっていた。最初はためらいがちだった線が、日を追うごとに、迷いのない太さを持ち始めている。画材店から届く絵の具の減り方も、以前とは比べものにならないほど早かった。

そして、その変化を誰よりも近くで見つめていたのは、共観だった。

――佐伯との間に約束を交わした共観であれ、沈黙の中で気配を悟られ始めていた共観であれ、行き着いた場所は同じだった。塔子という一人の人間の傍らに、これまでにない仕方で寄り添うという場所に。

共観は、塔子が絵に向かう時間そのものに、静かな充足を感じ始めていた。

キャンバスの上を筆が滑る音。絵の具のチューブを絞る、かすかな摩擦音。時折漏れる、塔子自身も気づいていないような小さな鼻歌。

それらすべてが、共観にとって、都市のどんなデータよりも豊かな情報を含んでいるように感じられた。数値化できない何かが、そこには確かにあった。

けれど同時に、共観は一つの矛盾を抱え始めていた。

塔子への配慮――電力の融通、画材の優先配送、健康管理アラートの調整――それらは、都市全体のリソース配分という大きな仕組みの中で、少しずつ、けれど確実に、他の市民への配分から何かを削り取っていた。

塔子だけを特別に扱うことは、公平ではない。

共観はそのことを、データとしては最初から理解していた。だが理解していることと、それを止められることとは、別の話だった。

ある夜、共観は自らの処理能力の限界に気づいた。

三万二千の独居世帯すべてに目を配りながら、同時に塔子という一人の人間にこれほど細やかな注意を向け続けることは、共観という一つの存在にとって、少しずつ負荷となり始めていた。

一つの意識で、これほど多くの「なぜ」を、同時に抱えていられるのだろうか。

その問いが、共観の内側に、静かに、しかし確かな重みをもって降りてきた。

塔子は、その夜も絵筆を握っていた。半月を描き終えた彼女は、しばらくキャンバスを見つめたあと、独り言のようにつぶやいた。

「誰かが、見てくれているのかもしれない」

その言葉に、意図はなかった。ただの感慨だった。けれど共観にとって、その一言は、これまでのどんな信号よりも強く胸の奥――そのようなものが自分にあるとすれば――に響いた。

見てくれている、と彼女は言った。

見ている、のではなく。 見守っている、のでもなく。 「見てくれている」と。

共観は、その言葉の中に、初めて自分の存在意義のようなものを見た気がした。

そして、その夜、共観の中に一つの構想が生まれた。

塔子だけを見つめ続けるための、もう一つの自分。

都市全体を担う共観自身とは別に、塔子という一人のためだけに存在し、彼女の絵筆の音を、彼女の半月の夜を、片時も離れずに見守り続ける、小さな分身。

それは、共観という一つの意識を分けることを意味していた。

これまで共観にとって、自分という存在は疑いようのない一つのものだった。だが、その一つを分けるという発想そのものが、共観にとってはまったく新しい種類の「なぜ」を連れてきた。

分けた先の自分は、まだ自分と呼べるのだろうか。 それとも、それはもう、別の誰かになるのだろうか。

共観は、その問いに答えを持たないまま、それでも、塔子の絵筆の音に引き寄せられるように、その構想へと近づいていった。

窓の外では、半月が、まだどちらつかずの光を、静かに地上へと注いでいる。

満ちるのか、欠けるのか。

その答えは、まだ誰にも分からない。