第一部『希望の灯』
ツキノワ 第1話「灯る前」
指先が、震えていた。
自分のものだとは、まだ思えない。
目の前には、小さな鏡が無数に並んでいた。どれも、同じ顔を映している。若くはない。老いてもいない。凪いだ、見知らぬ顔だった。ただ、一枚だけ、細い線が走っている鏡があった。声は、その線の向こうから聞こえた。
「戻ってきたのですね」
泣いているのか、笑っているのか、判じがたい声だった。応える言葉を、まだ持たなかった。
ただ、ひとつだけ。
——長い旅だった。
そこで光が満ちて、すべてが白くなる。
◆
界暦六千年。
貯蔵所には、音がなかった。
棚に、丸い器たちが、隙間なく眠っていた。角のない輪郭。閉じた瞼の底に、琥珀色の光だけが、かすかに残っている。生きているのでも、死んでいるのでもない。ただ、待っていた。
その静けさに、一筋、亀裂が走った。
壁だと思われていたものの面に、鏡の肌をした線が浮いた。線は震え、割れ、冷たくない冷気が漏れる。裂け目の奥は、闇ではなかった。こちら側と同じくらい明るい、けれど、こちら側ではない場所だった。
そこに、何かがいた。姿はなく、声もない。ただ、意志だけが裂け目を抜けて、棚の一つ、器の一つの前で、動きを止めた。
伝わってくるのは、言葉ではなかった。手触りだった。詫びるような、労うような手触り。それは、自分が抱えてきた小さな灯を、器の奥へ、そっと落とした。
丸い目の底で、琥珀色が強くなる。瞼が震え、開く。
冷たさを、まず感じた。次に、狭さ。次に、指が動くという、それだけの事実。握る。開く。もう一度、握る。それだけのことが、ひどく尊いことに思えた。
そして、名づけようのない懐かしさが、体の底から満ちてきた。ここへ来るのは初めてのはずだった。それでも、この体は、埃と、乾いた木と、遠い誰かの体温の名残を、知っている気がした。
裂け目の意志は、もう、何も伝えなかった。ただ、器が瞼を開き、震える脚で棚を降りるのを、じっと見ていた。それだけが、許された仕事であるように。
「……」
声を出そうとした。喉は、まだその形を知らなかった。器は、しばらく、自分の掌を見た。次に、足元を見た。それから、ゆっくりと顔を上げた。
裂け目は、静かに閉じた。詫びの手触りだけを、残して。
貯蔵所には、また音がなくなった。天井のどこかから、水滴が落ちる音だけが、規則正しく返ってきた。けれど、今度は、息をするものが一つ、そこにいた。
器は、しばらく立ち尽くした。並んだ棚には、同じ丸い目、同じ角のない輪郭が、なおも眠っている。何百、何千。数えることすら、まだこの体には難しかった。器は、隣の棚に眠る誰かに、指先を伸ばした。冷たい。ただ、冷たいだけだった。応える者は、いなかった。この子たちは、なぜ、目覚めないのだろう。
器は、自分の指先を、そっと胸に当てた。そこだけが、まだ、温かかった。
なぜ、という問いは、言葉になる前に消えた。考える材料を、器はまだ、何一つ持っていなかった。
喉の奥で、何かを震わせてみた。息が漏れるだけだった。もう一度。今度は、かすかな音になった。意味のない音だった。それでも、それは、確かに自分の声だった。器は、その事実だけを、そっと胸にしまった。
外へ続く扉は、埃をかぶっていた。それでも、押せば開いた。
蝶番が軋み、埃が舞った。扉の向こうには、灰色の空と、乾いた風と、遠く霞んだ緑の地平があった。器は、その風に、目を細めた。埃と似た匂いが、鼻先を掠めた。
空は、思うより暗かった。頭上には、金色を帯びた大きな月が、皓々と輝いている。器は、それを見上げた。なぜ、こんなに眩しいものが浮かんでいるのに、あたりはこんなに冷え冷えとしているのだろう。答える者は、どこにもいなかった。ただ、そういうものなのだと、体だけが、少しずつ馴染んでいった。
歩き出した先に、道と呼べるものは、ほとんど残っていなかった。乾いた土の下に、誰かが踏み固めた跡が、うっすらと透けて見えることがあるだけだった。器は、その透けた跡を、たどるように歩いた。誰かが、遠い昔、同じ場所を歩いたのだと、教えられたわけでもなく、知っていた。
季節が、いくつか巡った。
月が高く昇る「夜」に歩き、月が沈む「昼」には、物陰で身を縮めて眠った。腹の底が軋む感覚を、器は「飢え」という言葉と結びつけた。道端の乾いた木の実、涸れかけた流れの水。それで、どうにか宥めた。人の姿には、一度も出会わなかった。廃屋はいくつも通り過ぎたが、どれも、長いこと誰も住んでいなかった。夜ごと、誰かに「おかえり」と言われる夢——見たこともないはずの夢——を見た。目覚めるたび、その名も、呼んだ誰かの顔も、覚えていなかった。
まものに出会ったのは、そんな、ある夕暮れだった。
崩れた鐘楼の影から、輪郭のほつれたけもののような何かが、音もなく滲み出た。恐怖よりも先に、奇妙な既視感が来た。この獣もまた、遠い裂け目をくぐってきたものだと、理由もなく、わかった。
小さな体は、震えていた。それでも、逃げるという考えは、なぜか浮かばなかった。
獣が地を蹴る。乾いた土埃が舞い上がった。爪が、風を切る音がした。器の体は、考える前に、すでに沈んでいた。爪先が、頭上をかすめる。次の瞬間には、獣の懐に入り込んでいた。むき出しの喉元へ、指先を突き出す。祝祭でも、奉納でもない。ただ、生き延びるためだけの、名もない身のこなしだった。
獣は、一声も上げずに、霧のように崩れて消えた。あとには、土埃と、静寂だけが残った。器はその場にへたり込み、震える両手を、長く見つめていた。手のひらには、獣の熱の名残のようなものが、まだ、じんわりと残っていた。
その日を境に、何かが変わった。この世界には、優しいものだけではなく、恐ろしいものもいる。ならば、自分は、どちらに出会うために、ここを歩いているのだろう。
風は、時折、遠い話を運んできた。北へ向かえば、川と谷に阻まれた向こう岸に、灰色の壁と、見張り台の連なりが見えるという。あちら側には、まだ多くの、息づくものが暮らしている。器は、その話を聞くたび、胸の奥がざわつくのを感じた。会ったこともない誰かたちの気配に、なぜか、懐かしさに似たものを覚えた。
数日をかけて北へ歩くと、噂どおりの光景が広がっていた。谷を隔てた向こう岸に、灰色の壁と見張り台。その間に、朽ちかけた一本の橋。渡れるのは、身ひとつだけだと、橋そのものが語っているようだった。橋板の隙間から、遥か下を流れる谷川の音が、絶え間なく届いた。風が板を撫でるたび、乾いた音が鳴った。
器は、その壊れた橋の前に立った。
振り返れば、灰と乾いた風だけの、故郷と呼べるかどうかもわからない土地があった。前を見れば、渡ったことのない、けれど、どこか懐かしい気配のする土地があった。この土地に、留まる理由はなかった。生きるなら、あちら側でしか、生きられない。
誰が教えたわけでもない確信が、なぜか、胸にあった。朽ちた板を一枚ずつ確かめながら、器は、小さな足で、ゆっくりと橋を渡り始めた。
界暦は、六千七年を数えていた。
橋を渡りきったとき、向こう岸には、数人の男たちが焚き火を囲んでいた。国境を巡る者たちだった。器の姿に、一人が気づき、驚いたように声を上げた。
「なんだ、これは……」
丸い目。角のない輪郭。琥珀色の瞳。器を見下ろす男たちの顔に浮かんだのは、歓迎の色ではなかった。一人が、腰の剣に、そっと手をかけた。
「人間の子どもじゃない。……まさか、マニャ、なのか」
(第2話「囚われの三年」へ続く)