第一部『希望の灯』
ツキノワ 第2話「囚われの三年」
「マニャ、なのか」
その言葉が繰り返されるたび、男たちの間に、ざわめきが広がった。誰も、器に手を差し伸べようとはしなかった。縄こそかけられなかったが、囲まれ、値踏みされ、時折、棒の先でつつかれた。器は、ただ丸い瞳で、男たちを見上げ返すことしかできなかった。
「聞いたことがあるぞ。南の遺跡に、大昔、滅んだ異形の民がいたと……まさか、生き残りがいたとはな」
「気味の悪い姿だ。人間の子どもの真似事をしているようにしか見えん」
言葉の意味は、半分もわからなかった。ただ、棒の先が肌に触れるたび、それが優しさから来るものではないと、痛みだけが教えてくれた。
器は、そのまま砦へ、それから中央へと連れて行かれた。エドニマウ、という国の名を、このとき初めて耳にした。その名を教えてくれた誰もが、器を見る目に、どこか一枚壁を隔てたような色を浮かべていた。
砦から中央へ続く道は、これまで見てきたどんな景色よりも賑やかだった。荷馬車が行き交い、物売りの声が響き、遠くに城の尖塔が霞んで見えた。だが、その賑わいのどこにも、器の居場所はなかった。すれ違う人々は、器の姿に気づくたび、足を速めるか、眉をひそめて距離を取った。子どもたちは、道端で石を拾い上げる仕草をして見せた。実際に投げてくる者もいた。
砦の役人は、しばらく処遇を持て余していたようだった。殺すには忍びなく、育てる義理もない。結局、器は市街地区のはずれにある安宿へ、下働きとして押しつけられるように引き取られた。
◆
界暦六千七年から、三年の月日が流れた。
器がその歳月をどこでどう過ごしたか、誰かがきちんと記録したわけではない。ただ、市場の隅に座らされ、見世物のように眺められたことがあった。指を差され、囃し立てる声に、身を縮めるしかなかった。粗末な宿の下働きとして拾われては、些細な粗相で叩き出されることもあった。物を盗まねば食べられない夜も、数えきれないほどあった。
宿では、水汲みと薪割りをさせられた。その腕は、人間の子どもよりもよほど力があったが、それすらも「化け物じみている」と気味悪がられる理由にしかならなかった。ある日、客の忘れ物を届けようと駆け寄っただけで、「盗もうとした」と決めつけられ、宿の主に棒で打たれた。声を上げても、誰も庇ってはくれなかった。その夜のうちに、器は宿を追い出された。
「マニャの子どもだ」「触るな、穢れが移る」——そう囁かれ、指をさされるたび、器は、両手で、そっと自分の体を抱くようになった。
ある夏の日、井戸端で洗濯をする女の桶を、運ぶのを手伝おうとしたことがあった。女は、器の伸ばした手から桶を引き離し、その場を離れていった。何も言わなかった。ただ、足取りだけが、早かった。
いつしか市街地区の外れ、暗黒街と呼ばれる一角に流れ着いていた。灯りの届かない路地に、似たような境遇の者たちが身を寄せ合って眠っていた。誰も、名前を尋ねなかった。器も、誰の名前も知らずに、日々をやり過ごした。
冬になれば、路地の隅で震えながら眠った。夏になれば、腐りかけた残飯を漁ってでも腹を満たした。殴られることには、いつの間にか慣れた。声を上げても、誰も助けには来ないということにも。
界暦六千九年の冬、器は、暗黒街の裏路地で、酔った男たちに囲まれた。「マニャの子どもは、どんな声で鳴くのか試してやろう」——男の一人がそう笑いながら、器の首根っこを掴み上げた。爪先が浮く。息が詰まる。抵抗する力は、確かにあった。だが、男たちの目の奥には、獣を追い詰めるときと同じ色があった。器は、握りかけた拳を、そっと開いた。そのまま体を丸め、地面に転がった。拳が肩に落ち、爪先が腹をかすめる。冷たい石畳の感触だけを、数えるように意識した。それでも、声は上げなかった。
その夜、路地の隅にうずくまりながら、器は、自分の胸に手を当てた。指先の下で、何かが、かすかに、頑なに動いている。その拍動の速さだけを、確かめた。唯一、慣れずにいたことがあった。
路地裏の水たまりに、夜ごと、自分の顔が映るとき。
水面が静かになるたび、そこに、同じ形が戻ってくる。器は、目だけを、そっと逸らすようになっていった。
界暦六千十年のある夜、器は、いつものように水たまりの前にしゃがみ込んでいた。空腹で、体の芯まで冷えていた。手のひらで水面を叩き、映る顔を崩そうとした。何度も、何度も。それでも水は、しばらくすればまた凪ぎ、変わらない顔を映し出した。
爪が、指先に食い込むほど、拳を握った。
「おい、そこで何をしている」
声をかけてきたのは、まだ若い——けれど器よりはずっと年上に見える、人間の若者だった。歳の頃は、十八ほどだろうか。器は、反射的に体を縮めた。また、何か言われる。また、何かを投げつけられる。そう思い、身構えた。
だが、若者は顔をしかめなかった。ただ、器の前に屈み込み、目線を合わせただけだった。
「随分と、痩せているな」
その声には、恐れも、嫌悪も、好奇もなかった。ただ、静かな気遣いだけがあった。器は、その声の響きに、何と応えていいのかわからなかった。誰かに、まっすぐ目を見て話しかけられたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。
「腹が減っているんだろう。来い」
差し出された手は、荒れていたが、温かかった。器は、しばらくその手を見つめたまま、動けなかった。信じていいのかどうか、判断する材料を、まだ何一つ持っていなかった。それでも、震える指先を、そっとその手に重ねた。
連れて行かれたのは、暗黒街の隅にある、小さな屋台だった。若者は、熱の立つ椀を二つ受け取ると、迷わずその一つを器の手に押しつけた。
「食え。冷めないうちに」
器は、椀を受け取ったまま、動きを止めた。椀の縁から立つ湯気が、頬をかすめて昇っていった。恐る恐る口に運んだそれは、塩気の強い、腹に染みる汁だった。喉を通るその熱さに、器は不意に涙腺が緩むのを感じ、慌てて俯いた。
「泣くほど旨いか」
声に滲んだのは、笑いだけだった。器は、首を横に振ることしかできなかった。
その夜、器は、温かい食事を口にした。殴られることも、罵られることもなく、体を丸めずに眠れる夜だった。指先の悴みだけが、いつもより、少しましだった。
若者は、リオと名乗った。素性を多くは語らなかった。どこから来て、なぜこの暗黒街にいるのか、器が尋ねても、視線を逸らして、話をすり替えるだけだった。ただ、器の姿を見ても、一度も顔をしかめなかった。
「お前のその姿を、俺は気味悪いとは思わない」
椀を空にした器に、リオはそう言った。
「マニャ、という名も、俺は聞いたことがある。……滅んだ、なんて話も。だが、目の前で腹を空かせている奴が、滅んでいるわけがないだろう」
リオがそう言ったとき、器の目の奥が、じんと痺れた。声を殺すことも忘れて、器は泣いた。三年分の、行き場のなかった何かが、その一言で、ようやく涙という形を得た。石を投げられた日も、殴られた日も、水たまりに映る自分の顔から目を逸らした夜も、そのすべてが、涙になって溢れ出た。
リオは、何も聞かずに、ただその背中を、いつまでも撫でていた。
「行く当てがないなら、しばらく俺のところにいるといい」
それだけ言うと、リオは屋台の主に何かを耳打ちし、器のために古びた毛布を一枚、譲り受けてきた。器は、その毛布に包まりながら、初めて、朝が来るのが怖くない夜を過ごした。
夜が明けきる前、リオの声が、器を眠りから引き上げた。
「そういえば、名前は」
器は、答えられなかった。誰にも、名前を尋ねられたことがなかった。
「ないのか」
リオは、少し考えるように、天井を見上げた。それから、閉じかけた雨戸の隙間から、細い光が一筋、床に伸びているのに気づいた。
「ショウ、でどうだ」
その一言に、深い理由はなさそうだった。リオは、そう言ってから、満足したように頷いた。
「ショウ。今日からそう呼ぶ」
その名を、器は、しばらく声に出さずに、口の中で繰り返した。舌の上で、その音は、思っていたより、すぐに馴染んだ。
翌朝、目を覚ますと、リオはもう傍らにいなかった。一瞬、また独りになったのかと、ショウの胸が冷えた。だが昼過ぎになって、リオが、ひょいと姿を見せた。手には、焼きたてのパンを二つ提げていた。
「どこに、行っていたんだ」
ショウが尋ねると、リオは決まり悪そうに笑った。
「知らない道を、少し歩いていた。……悪いな、こういう性分なんだ」
それが、リオという人間の、最初に知った癖だった。ふらりといなくなっては、ふらりと戻ってくる。
ショウは、渡されたパンを、半分だけ食べた。残りは、そっと、懐にしまった。
(第3話「憧れ」へ続く)