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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第2話「囚われの三年」

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「マニャ、なのか」

その一言が、口から口へと伝わるうち、群れの間に、さざめきが広がった。縄がかけられ、口に布を押し込まれた。抗う間もなく、荷馬車の荷台へ、そのまま転がされた。

荷台の隙間から見える景色が、次々と移り変わっていく。砦の門、賑わう大通り、行き交う人々の顔。誰もが、ぎょっとした眼差しを一度だけ寄越し、すぐに逸らした。声を上げようとしても、布が阻んだ。

荷馬車は、そのまま、灯りの届かない路地の奥まで進んだ。

「南の遺跡の生き残りとはな。上の方々も、お喜びになろう」

ぼろ布のフードを被った者たちが、そう囁き合っていた。運び込まれたのは、ひび割れた鏡が祀られた、古びた祭殿だった。祭壇には、見知らぬ紋様が刻まれている。

「鏡の向こうへ還す贄が要る。ちょうどいい」

床に転がされたまま、体が震えた。逃げようにも、縄が肌に食い込んでいる。フードの者たちが、詠唱を始めた。祭壇の鏡が、じわりと、黒く滲みはじめる。

ひび割れた鏡の祭壇の前で、縛られ横たわる猫耳の少年と、詠唱するフードの者たち

——ここで、終わるのか。

そう思った、その時だった。

「おいおい、こんな辺鄙な祭殿に、上物が転がっているとはな」

祭殿の扉を蹴破って現れたのは、恰幅のいい、派手な身なりの男だった。フードの者たちが色めき立つ。

「何者だ、貴様」

「通りすがりの商人だ。……続けてくれて構わんが、その坊主は、俺が先に見繕ったものでね」

軽口を叩きながら、男は懐から取り出した何かを祭壇へばら撒いた。フードの者たちが、慌ててそれを拾い集める。その隙に、体は、ひょいと肩へ担ぎ上げられた。

「じっとしていろ、坊主。今日のところは俺の得意先というわけだ」

混乱に乗じて、祭殿を飛び出した。

連れて行かれたのは、暗黒街の奥にある、隠し倉庫だった。

「名乗るほどのものではないが、まあソウとでも呼んでおけ」

その人——ソウは、縄を切り、口の布を外してくれた。安堵より先に、声が漏れた。

「あの……なぜ、助けて」

「助けた? 人聞きが悪いな。仕入れただけのことだ」

ソウは、にやりと笑った。

「マニャなど、そうそう手に入る品ではない。売り先はこれから考えるとして——お前、腕はあるのだろう。ここで働け。飯と寝床はやる」

行き場もなかった。頷くしかなかった。

翌日から、倉庫の荷運びをさせられた。木箱を運び、瓶を並べ、帳面に印をつける手伝いをする。慣れない仕事ばかりで、何度も瓶の山を崩しかけた。

「危なっかしいな、お前」

ソウは呆れながらも、なんだかんだと仕事を割り振ってきた。数日は、それで穏やかに過ぎた。

棚の奥にしまわれた木箱を運ぶ最中、足が滑った。抱えていた細工物——金の装飾を施した、いかにも値の張りそうな壺——が、床に落ちて割れた。

「馬鹿者! あれは金貨百枚の値がついた壺だぞ!」

ソウが、顔を赤くして怒鳴った。

「知らな……」

「知らなかったで済むものか。お前の稼ぎから引かせてもらう」

——実のところ、露店で買った安物の作り損ないだったのだが、そのことは、教えてもらえなかった。

その日から、働いても働いても、稼ぎは帳面の上で、マイナスのままだった。真面目に働いているつもりでも、荷を落とし、印を押し間違え、そのたびに、帳面の数字は増えていった。

季節は、幾度も巡った。倉庫の裏で丈を測る印は、いつの間にか壁の少し上まで伸びていた。それでも帳面の数字だけは、三年経っても、一向に減る気配がなかった。

ある晩、ソウが帳面を睨みながら、独り言をこぼしているのを聞いた。

「借りを返す当てが要る。まとまった金がな……そうだ、あの坊主、見世物小屋に売ってしまえばいい。マニャなど、見世物にはうってつけだ」

その一言に、心臓が跳ねた。

翌朝、ソウの前に飛び出し、必死に言い募った。

「待ってくれ。もっと働く。壺のことも、詫びる」

「今更遅い。……なに、見世物小屋も、そう悪い暮らしではないさ」

取り合ってはもらえなかった。縄をかけられ、暗黒街の外れにある見世物小屋の裏手へ連れて行かれた。看板には、けばけばしい文字で「珍獣・異形の子」と記されていた。

「話は通してある。金貨十枚で手を打とう」

小屋の主と、ソウが握手を交わそうとした、その時だった。

「その手、離してもらおうか」

割り込んできたのは、若い男だった。

「お前には関係のない話だ」

ソウが凄んだ。だが、男は怯む様子もなく、懐から金貨の詰まった袋を放り投げた。

「関係はある。その坊主、俺が買う」

鍵型の首飾りをつけた赤髪の男が、金貨の詰まった袋を放り投げ、恐れる猫耳の少年を見つめる

袋の重みに、ソウの目の色が変わった。

「……話が早いな。持っていけ」

縄を解かれ、その人に手を引かれるまま、路地の奥へと歩いた。角を折れたところで、足がもつれ、水たまりの前にへたり込んだ。映る顔から、反射的に、目を逸らした。

その人は、何も言わずに屈み込み、目線を合わせた。

「随分と、痩せているな」

その声に、恐れも、嫌悪も、好奇もなかった。ただ、静かな気遣いだけがあった。

「腹が減っているのだろう。来い」

差し出された手は、荒れていたが、あたたかかった。しばらく、その手を見つめたまま、動けなかった。それでも、震える指先を、そっと重ねた。

連れて行かれたのは、暗黒街の隅にある、小さな屋台だった。湯気の向こうから、焼いた肉と煮込んだ野菜の匂いが、香ばしく漂ってくる。その人は、なみなみと注がれた椀を二つ受け取ると、迷わず一つを押しつけた。

「食え。冷めないうちに」

椀からは、絶え間なく白い湯気が立ち上っていた。とろけるほど煮込まれた肉と、色つやのいい野菜が、脂の浮いた汁の中に沈んでいる。恐る恐る口へ運ぶと、濃厚な旨味と、ほどよい塩気が広がった。喉を落ちていく熱が、凍えていた腹の底まで、じんわりと染み渡っていく。あまりの熱さと美味さに、不意に涙腺が緩み、慌てて俯いた。

屋台の灯りの下、赤髪の男が湯気の立つ椀を差し出し、猫耳の少年がそれを見上げる

「泣くほど旨いか」

声に滲んだのは、笑いだけだった。

その人は、リオと名乗った。素性は、多くを語らなかった。

「お前のその姿を、俺は気味悪いとは思わない」

椀を空にしたところで、リオはそう言った。

「マニャ、という名も、聞いたことがある。……滅んだ、という話もな。だが、目の前で腹を空かせている者が、滅んでいるわけがないだろう」

その一言に、目の奥が、じんと痺れた。声を殺すことも忘れて、泣いた。

「行く当てがないなら、しばらく俺のところにいるといい」

夜が明けきる前、リオの声が、眠りを引き上げた。

「そういえば、名は」

答えられなかった。

「ないのか」

リオは、少し考えるように、天井を見上げた。それから、閉じかけた雨戸の隙間から、細い光が一筋、床に伸びているのに気づいた。

「ショウ、でどうだ。今日から、そう呼ぶ」

その名を、しばらく声に出さずに、口の中で繰り返した。舌の上で、その音は、思っていたより、すぐに馴染んだ。

翌朝、目を覚ますと、リオはもう傍らにいなかった。一瞬、また独りになったのかと、胸が冷えた。だが、昼を過ぎた頃、リオは、ひょいと姿を見せた。手には、焼きたてのパンを二つ提げていた。

「どこに、行っていたのだ」

「知らない道を、少し歩いていた。……悪いな、こういう性分なのだ」

それが、リオという人間の、最初に知った癖だった。ふらりといなくなっては、ふらりと戻ってくる。

渡されたパンを、半分だけ食べた。残りは、そっと、懐にしまった。

「ショウ、か……悪くないな」

そう呟いて、パンを握る手に、少しだけ力を込めた。

(第3話「憧れ」へ続く)

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