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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第3話「憧れ」

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「起きろ。飯が冷める」

毛布の下から、くぐもった声で答えた。

「今、少しだけ……」

「今のうちに、お前の分まで食べてしまうぞ」

慌てて毛布を跳ね除け、身を起こした。昨夜しまったパンの残り半分は、まだ懐にあった。かたい皮に指先で触れてから、体を起こす。

火のそばには、湯気を立てる鍋があった。とろとろに煮込んだ豆と、脂の乗った干し肉が、黄金色の汁の中に、くたくたに溶けている。差し出された椀を受け取ると、じんわりとした温もりが、両手に染み込んできた。

一口すすると、豆の甘みと肉の旨味が、舌の上でとろけるように広がった。焼きたてのパンをちぎって汁に浸すと、しみ込んだパンが、口の中でほろりと崩れる。夢中で頬張るうち、額に、じんわりと汗がにじんだ。

「そんなに慌てて食うな。零れるぞ」

答える代わりに、椀の中身を、また口へ運んだ。椀の底が見えるころには、腹の中まで、すっかりあたたまっていた。

外はまだ薄暗かった。リオと連れ立って市場に出ると、いつもの通り、視線が集まった。指を差す子ども。眉をひそめる客。もう、それに慌てて目を伏せることはしなくなっていた。それより、見たことのない色の布や、山盛りの果物のほうが、よほど気になった。

「見るのはいいが、立ち止まるな」

袖を引かれ、ようやく足が動いた。

八百屋の前で、店主が声を荒らげた。

「その化け物を、店先に近づけるな」

市場の八百屋の前で、店主に凄まれながらも笑うリオと、その傍らの猫耳の少年

思わず、後ろや横を見回した。それらしき姿は、どこにもない。

リオが、額に手を当てて、深く息をついた。

「……お前のことだ、それは」

リオは、笑いながら間に入った。

「見た目で客を追い返すほど、儲かっているようには見えないがな」

店主は言葉を失い、結局、何も言わずに野菜を渡した。リオはそれを無造作に手へ押しつけると、何ごともなかったように歩き出した。大根の泥を、袖でそっと拭った。

その日、リオが引き受けた仕事は、水車小屋の歯車の修理だった。リオが歯車を睨みながら唸っている隣で、退屈しのぎに、脇に置かれた工具箱を覗き込んだ。見慣れない留め具を、指先でつまんで引いてみた。とたん、鈍い音がして、支えを失った水車の羽根が一枚、地面に転がり落ちた。

「……何をした」

リオの声が、低くなった。

「すまない。私が触ったせいだ。直す」

言い訳よりも先に、転がった羽根を抱え上げていた。外れた留め具を、どうにか元の位置に押し込もうとする。指を挟みながらも、諦めずに、何度もやり直した。

見かねたリオが、ため息まじりに手を貸してくれた。二人がかりで、なんとか羽根は元の場所に収まった。水車主は、直り具合を見て、満足そうに頷いた。

「思ったより早いな。腕がいい」

帰り道、リオがぼそりと言った。

「次からは、黙って見ていろ」

「……気をつける」

しょげながらも、水車が回る音を思い出すと、なぜか、誇らしい気持ちも湧いた。

それからも、似たような日々が続いた。リオは市街地区の外れで、荷運びや修理といった雑事を請け負い、その手伝いをするようになった。重い木箱を担ぐ役目は、いつも回ってきた。人間の子どもよりよほど力があるという理由からだったが、頼られること自体が、新しかった。稼いだ銭は、二人分の食事と、雨露をしのぐ屋根に変わった。

冬になれば、狭い部屋の隙間から、容赦なく風が入り込んだ。それでも、殴られる心配のない冬は、初めて過ごす種類の冬だった。

夜、干し肉をかじりながら、リオはよく、旅先で見た景色の話をした。西の山では、鎚の音が絶えないこと。東の森では、木々の隙間から光が旋律のように揺れて見えたこと。話の半分も本当かどうか、確かめる術はなかったが、聞いているだけで、狭い部屋の壁が、少し遠くなる気がした。

「お前も、そのうち好きな場所に行けるようになる」

ある晩、リオはそう言って、頭を軽く小突いた。言葉の意味は、うまく飲み込めなかった。ただ、小突かれた場所だけが、しばらく温かかった。

「行きたい場所が、あるのか」

問うと、リオは珍しく黙り込んだ。しばらくして、短く笑った。

「さあな。行った先で、探すものなのかもしれん」

はぐらかされたのだと、わかった。それでも、負けじと言い返した。

「では、私も一緒に探そう」

リオは片眉だけ上げて、ふっと笑った。

「それは、心強いことで」

そう茶化されると、それ以上は、踏み込めなかった。リオの気まぐれには、越えてはならない一線があると、肌で覚えていた。

広場では、時折、「手合わせ」という祭が開かれた。頼まれて木刀を握ったリオが、相手の一撃を軽くいなし、返す一打で木刀を弾き上げた。見物の輪から、惜しみない歓声が上がった。

木刀を掲げ歓声を浴びるリオを、群衆の中から瞳を輝かせて見上げる猫耳の少年

「次は、お前も握ってみろ」

木刀を渡されたことがあった。柄を握った手が、汗ですぐに滑った。輪の中から、誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。

「……いい。見ている方が、性に合っている」

木刀をそっと下ろし、首を振った。リオは、それ以上は勧めなかった。ただ、少しだけ、眉を寄せた。

その夜、寝床に入ってからも、木刀の柄の感触を、指先に思い出していた。握れなかったのではない。握った先の視線が、何を返すかを、すでに知っていたからだった。

その夜以来、その輪の外から、リオを見るようになった。歓声を受け止めるリオの肩は、まっすぐな線を持っていた。自分の両手を見下ろす。丸みを帯びた指。角のない、なめらかな輪郭。同じ輪の中に立てば、歓声の代わりに、後ずさりが返ってくるだろうことは、確かめるまでもなかった。

家に帰る道で、水を汲んだ桶の面に、自分の顔を映した。何度見ても、慣れない輪郭だった。

——いつか、人間に生まれ変われたら。

桶の水面が、小さく波立つ。崩れた輪郭が、しばらくして、また同じ形に戻る。その揺れが収まるまで、じっと見ていた。かつて、この輪郭を呪ったことがあった。今はもう、桶を叩く手に、あの頃ほどの強さはなかった。水面が凪ぐのを待ってから、家路についた。

その夜から、市場で人間たちの喋り方を、耳で拾うようになった。抑揚の付け方、相手の名を呼ぶときの間の取り方。真似てみても、口の形がうまく追いつかず、リオに笑われることも多かった。

ある朝、八百屋の店主に「毎度」と真似て言ってみたが、変に力んだ声になった。店主は目を丸くしたあと、噴き出した。

「なんだ、その挨拶は」

「……練習中なのだ」

むきになって言い返すと、リオが横で、肩を揺らして笑っていた。悔しかったが、悪い気はしなかった。

「そんなに急いで、人間になりたいのか」

「……急いでなど、いない。少しだけだ」

むきになって言い返すと、リオが、また喉の奥で笑った。その日から、歩き方の癖や、挨拶の間の取り方を、遠回しに教えるようになった。教わったことを一つ真似できるたび、桶の水面を覗く回数が、少しずつ、減っていった。

ある秋、市場の年老いた常連が、「毎度」と声をかけてきた。他の客と、まるで同じ調子だった。

家に帰ってから、あったことをリオに話した。リオは、笑いながら、背中を軽く叩いた。

「な。急がずとも、そのうち慣れる」

そう言われて、頷いた。その夜だけは、桶の水面を、一度も覗かなかった。

翌年の収穫祭では、荷車を引く手伝いを頼まれた。誰も、輪郭を気にする様子はなかった。ただ、荷が重い、軽いという話だけが行き交った。それだけのことが、久しく忘れていた温かさに似ていた。

それからも、年月は流れた。力仕事を任されるようになり、街の者たちの中にも、渋々ながら「常連」として扱う者が出てきた。歓声を浴びることはなかったが、後ずさりされることも、少しずつ減っていった。リオの髪にも、いつの間にか白いものが交じり始めていた。木刀を構える背筋だけは、以前と変わらず伸びていた。

ある朝、指の関節が、いつもより長く伸びないことに気づいた。木箱を持ち上げる手が、一拍、遅れた。それだけだった。すぐに忘れた。

似たような朝が、何度か重なった。そのたび、指を握って開き、動きを確かめてから起き上がった。誰にも、口にはしなかった。

「近ごろ、疲れているように見えるが」

ある夜、荷を運びながら、リオがふと聞いた。

「そのようなことはない」

早口でそう答え、木箱を担ぎ直した。リオは、それ以上は聞かなかったが、その日は、普段の倍近く、歩幅に合わせて歩いてくれた。

夏のある朝、寝床から、なかなか起き上がれなかった。関節ではない、もっと深いところに、初めて言葉にできない疲れがあった。立ち上がると、視界の端が、しばらく白くにじんだ。壁に手をついて、それが収まるのを待った。リオには、言わなかった。

その日の帰り道、桶の水に映った自分の瞳を、じっと見た。かつて濃かった琥珀色の光が、心なしか、薄くなっている気がした。何度、水面を叩いても、光の濃さは変わらなかった。夕暮れの中を歩きながら、自分の足音が、重く土を踏んでいることに気づいた。数える気にもなれないほど、ゆっくりとした歩調だった。

桶を真上から覗き込み、水面に映る自分の悲しげな顔を見つめる猫耳の少年

家に着くと、リオが、いつもと同じ顔で出迎えた。何かを察したのか、一瞬、その足が止まった。

「……顔色が、悪いな」

笑ってみせようとした。うまく笑えたかどうかは、わからなかった。

(第4話「継ぐ灯」へ続く)

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