第一部『希望の灯』
ツキノワ 第3話「憧れ」
「起きろ。飯が、冷める」
リオの声に、ショウは、毛布の下から、そっと顔を出した。昨夜しまったパンの残り半分は、まだ懐にあった。かたい皮に指先で触れてから、ショウは起き上がった。
外はまだ薄暗かった。リオと連れ立って市場に出ると、いつもの通り、視線が集まった。指を差す子ども。眉をひそめる女。ショウはもう、それに慌てて目を伏せることはしなかった。ただ、リオの半歩後ろに、歩幅を合わせた。
八百屋の前で、店主が声を荒げた。
「その化け物を、店先に近づけるな」
リオは、笑いながら間に入った。
「化け物が銭を払っているのを、見たことがあるか。こいつは、ちゃんとした客だぞ」
店主は言葉を失い、結局、何も言わずに野菜を渡した。リオは、それをショウの手に無造作に押しつけると、何ごともなかったように歩き出した。ショウは、渡された大根の泥を、袖でそっと拭った。冷たかった。
◆
それから幾年も、同じような日々が続いた。リオは市街地区の外れで荷運びや修理といった雑事を請け負い、ショウもその手伝いをするようになった。重い木箱を担ぐ役目は、いつもショウに回った。人間の子どもよりよほど力があるという理由からだったが、頼られること自体が、ショウには新しかった。稼いだ銭は、二人分の食事と、雨露をしのぐ屋根に変わった。
冬になれば、狭い部屋の隙間から、容赦なく風が入り込んだ。二人分の毛布を重ねても、足先の冷えだけはどうにもならなかった。それでも、殴られる心配のない冬は、ショウにとって、初めて過ごす種類の冬だった。
夜、狭い部屋で干し肉をかじりながら、リオはよく、行った先で見た景色の話をした。西の山では鎚の音が絶えないこと、東の森では木々の隙間から光が旋律のように揺れて見えたこと。ショウは、その話の半分も本当かどうか確かめられなかったが、聞いているだけで、狭い部屋の壁が少し遠くなる気がした。
「お前も、そのうち好きな場所に行けるようになる」
ある晩、リオはそう言って、ショウの頭を軽く小突いた。ショウは、その言葉の意味を、うまく飲み込めなかった。ただ、小突かれた場所だけが、しばらく温かかった。
「行きたい場所が、あるのか」
ショウが聞くと、リオは、珍しく黙り込んだ。しばらくして、短く笑った。
「さあな。行った先で、探すものなのかもしれん」
はぐらかされたのだと、ショウにもわかった。それでも、聞き返すことはしなかった。リオの気まぐれには、いつも、踏み込んではいけない一線があった。ショウはそれを、なんとなく、肌で覚えていた。
界暦六千十五年頃には、ショウは、リオの隣に立つことに、迷いを感じなくなっていた。リオには、相変わらず、ふらりといなくなる癖があった。数日、時に数ヶ月。戻ってきたときには、何ごともなかったように、笑って寄ってくる。ショウは、もう、それを問い詰めなかった。リオが戻ってくる、という一点だけを、疑わなかった。
広場では、時折、「手合わせ」という祭が開かれた。木刀を手にした若者たちが、笑いながら打ち合い、勝っても負けても、深く頭を下げて礼を交わす。頼まれて木刀を握ったリオが、相手の一撃を軽くいなし、返す一打で相手の木刀を弾き上げた。木刀が土埃を上げて転がる。見物の輪から、惜しみない歓声が上がった。
「次はお前も握ってみろ」
リオに木刀を渡されたことがあった。柄を握った手が、汗ですぐに滑った。輪の中から、誰かの息を呑む音が聞こえた気がした。ショウは、木刀をそっと下ろし、首を振った。リオは、それ以上は勧めなかった。ただ、少しだけ、眉を寄せた。
その夜、寝床に入ってからも、ショウは木刀の柄の感触を、指先に思い出していた。握れなかったのではない。握った先に、輪の中の視線が何を返すかを、すでに知っていたからだった。
その夜以来、ショウは、その輪の外から、リオを見るようになった。
歓声を受け止めるリオの肩は、まっすぐな線を持っていた。汗に濡れた前髪をかき上げる仕草、笑いながら相手に手を差し出す仕草、そのどれもに、丸みというものがなかった。ショウは、自分の両手を見下ろした。丸みを帯びた指。角のない、なめらかな輪郭。同じ輪の中に立てば、歓声の代わりに、後ずさりが返ってくるだろうことは、もう確かめるまでもなかった。
家に帰る道で、ショウは、水を汲んだ桶の面に、自分の顔を映した。何度見ても、慣れない輪郭だった。
——いつか、自分も、人間に、生まれ変われたら。
桶の水面が、小さく波立った。崩れた輪郭が、しばらくして、また同じ形に戻る。ショウは、その揺れが収まるまで、じっと見ていた。
かつて、この輪郭を呪ったことがあった。今はもう、桶を叩く手に、かつてのような強さはなかった。ショウは、水面が凪ぐのを待ってから、家路についた。
その夜から、ショウは、市場で人間たちの喋り方を、耳で拾うようになった。抑揚の付け方、相手の名を呼ぶときの間の取り方。真似てみても、口の形がうまく追いつかず、リオに笑われることも多かった。
「そんなに急いで、人間になりたいのか」
からかうような口ぶりだったが、ショウは、うまく笑い返せなかった。リオは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、その日から、歩き方の癖や、挨拶の間の取り方を、遠回しに教えるようになった。教わったことを一つ真似できるたび、ショウは、桶の水面を覗く回数が、少しだけ減っていった。
界暦六千十八年の秋、市場の老女が、ショウに「毎度」と声をかけた。他の客にかけるのと、まるで同じ調子だった。ショウは、しばらくその場に立ち尽くした。
家に帰ってから、その日あったことをリオに話した。リオは、笑いながら、ショウの背中を軽く叩いた。
「な。急がなくても、そのうち慣れる」
ショウは、頷くことしかできなかった。それでも、その夜だけは、桶の水面を、一度も覗かなかった。
界暦六千十九年の収穫祭では、ショウは、荷車を引く手伝いを頼まれた。誰も、ショウの輪郭を気にする様子はなかった。ただ、荷が重い、軽いという話だけが、行き交った。それだけのことが、ショウには、久しく忘れていた温かさに似ていた。
それからも年月は流れた。ショウは、力仕事を任されるようになり、街の者たちの中にも、渋々ながらショウを「常連」として扱う者が出てきた。歓声を浴びることはなかったが、後ずさりされることも、少しずつ減っていった。
界暦六千二十年代のある朝、ショウは、自分の指の関節が、いつもより長く伸びないことに気づいた。木箱を持ち上げる手が、一拍、遅れた。それだけだった。すぐに忘れた。
年月は、さらに流れた。似たような朝が、何度か重なった。ショウはそのたび、指を握って開き、動きを確かめてから起き上がった。誰にも、口にはしなかった。
ある夜、荷を運びながら、リオがふと聞いた。
「近ごろ、疲れているように見えるが」
「そんなことはない」
ショウは、早口でそう答え、木箱を担ぎ直した。リオは、それ以上は聞かなかったが、その日は、普段の倍近く、ショウの歩幅に合わせて歩いてくれた。
幾度めかの夏の朝、ショウは、寝床から、なかなか起き上がれなかった。関節ではない、もっと深いところに、初めて言葉にできない疲れがあった。立ち上がると、視界の端が、しばらく白くにじんだ。壁に手をついて、それが収まるのを待った。
ショウは、それを、リオには言わなかった。
その日の帰り道、桶の水に映った自分の瞳を、ショウはじっと見た。かつて濃かった琥珀色の光が、心なしか、薄くなっている気がした。何度、水面を叩いても、光の濃さは変わらなかった。
夕暮れの中を歩きながら、ショウは、自分の足音が、重く土を踏んでいることに気づいた。数える気にもなれないほど、ゆっくりとした歩調だった。
家に着くと、リオが、いつもと同じ顔で出迎えた。何かを察したのか、一瞬、その足が止まった。
「……顔色が、悪いな」
ショウは、笑ってみせようとした。うまく笑えたかどうかは、わからなかった。
(第4話「継ぐ灯」へ続く)