第一部『希望の灯』
ツキノワ 第6話「群発の夜」
「お前、構えが素人じゃないな。誰に習った?」
振り返ると、歳の近い若者が値踏みするような目でこちらを見ていた。負けを知らないと評判の、広場の常連だった。
「……遠縁の兄のような人に」
それだけの答えで、若者は十分だと言うように笑った。
「上等だ。今度俺と手合わせしろ」
それがジンだった。
歳の頃はショウと変わらないはずなのに、その物腰には年齢に見合わない落ち着きがあった。後で聞いた話では、幼い頃から広場に出入りし、名うての大人たちに交じって腕を磨いてきたのだという。
◆
それから何年も、ショウとジンは共に広場に立ち続けた。勝つ日もあれば、負ける日もあった。ジンはショウの生まれや素性を深く詮索しなかったし、ショウもまた故郷の名を告げることはなかった。ただ、手合わせのあとの一礼だけを二人は欠かさなかった。
「今日はお前の右足が甘かったな」
打ち合いのあと、ジンはよく、そんな風に一言だけ講評した。ショウは素直にそれを受け止め、次の日にはその一言を確かめるように、また木刀を振った。負けが込む時期もあれば、ジンの木刀を弾き飛ばす日もあった。勝敗の数よりも、打ち合ったあとに交わす一言のほうが二人の間には積み重なっていった。
一度だけ、ひどく言い争ったことがあった。ジンがショウの構えを「型に頼りすぎている」と評したのがきっかけだった。ショウは珍しく言い返し、その日の手合わせはいつもより荒れた。互いに数ヶ所ずつ痣をこしらえて、それでも決着はつかなかった。翌朝、何ごともなかったように広場に現れたジンが、串焼きを一本無言で差し出してきた。ショウはそれを受け取ることで、仲直りの返事に代えた。串の脂が、朝の光にうっすらと照っていた。

ある日、ジンがふと真顔になって聞いてきたことがあった。
「お前、たまに見たこともない構えをするな。誰かの真似じゃなさそうだが」
ショウはうまく答えられなかった。ただ、「体が勝手に覚えているだけだ」とだけ返した。ジンはそれ以上は追及せず、「妙な奴だ」と笑って話を切り上げた。ただ、それから時折、ショウの素振りを少し離れた場所から黙って眺めていることがあった。
打ち合いのあとは、決まって屋台で串焼きを分け合った。銭を出す側はその日の勝者と決まっていたが、ジンは負けた日でも、しれっと自分の分を先に頼んでしまうことが多かった。ショウが文句を言うと、ジンは「次で取り返せばいい」とだけ返し、涼しい顔で串を頬張った。
市場の裏路地の噂は、相変わらず時折ショウの耳にも入ってきた。ジンはその手の話を鼻で笑って取り合わなかったが、ショウは話を聞くふりをしながら、指先だけを無意識に握り込んでいることがあった。
界暦六千七十年、その均衡は唐突に崩れた。
夕暮れの市街地区に、まものが一体や二体ではなく、数えきれないほど一斉に現れたのだ。鏡の裂け目がいくつも同時に開いたかのような光景に、広場の人々は色を失った。逃げ惑う悲鳴と、崩れる屋台の音があちこちで重なった。
ショウとジンは、逃げ惑う人々を導きながら、迫る獣を次々と打ち払った。木刀を握る手が、すぐに悲鳴を上げ始めた。振り下ろす。かわす。獣の爪が頬をかすめる。踏み込み、体をひねり、獣の脇腹へ木刀を叩き込む。息を継ぐ間もなく、次の獣が迫った。汗が目に入り、視界が霞んだ。それでも足だけは止めなかった。
広場に集まっていた露天商たちが、荷車を盾代わりにして子どもたちを囲うようにかばっていた。ショウはその荷車に飛びかかろうとした獣の前に割り込み、木刀を横に薙いだ。骨に当たる硬い感触が腕に伝わった。獣は大きくよろめき、路地の奥へ逃げていった。
「後ろだ!」
ジンの声に振り向くと、背後から迫っていた獣の爪が間一髪で空を切った。ショウは崩れた体勢のまま地を這うように転がり、起き上がる間もなく獣の喉元へ木刀を突き入れた。手応えとともに獣の体が黒い砂となって崩れ、風に流されるように消えていった。
広場の隅では、逃げ遅れた子どもが瓦礫の陰でうずくまっていた。ジンが獣の群れの間を割るようにして駆け寄り、子どもを片腕で抱え上げた。振り返りざま、追いすがる獣の鼻先を木刀の柄で強かに打ち据える。獣が怯んだ隙に、ジンは子どもを抱えたまま安全な路地へ走り込んだ。
リオもまた迷わず炎の中に飛び込んでいった。逃げ遅れた老人を担ぎ上げ、崩れかけた屋根の下から走り出る。細い体のどこにそれほどの力があるのか、ショウには分からなかった。遠目に見えるその背中は、獣に囲まれてもなお揺らぐ様子がなかった。
一度、逃げ場を失ったリオの前に、ひときわ大柄な獣が立ちはだかったことがあった。リオは担いだ老人を庇うように半身になり、迫る爪を紙一重でかわし続けた。反撃する隙はないように見えた。それでも、獣が三度目の爪を振るったところで、リオは低く沈み込みながら足を払い、体勢を崩した獣の脇をすり抜けるように走り抜けた。ショウは遠目にそれを見ながら、なぜかその動きの一つひとつを初めて見る気がしなかった。

「これは俺たちだけじゃ足りない……!」
ジンの叫びに、ショウはこれまで言葉にならなかった何かに、ようやく輪郭が与えられた気がした。西の山にも、東の森にも、北の地にも、きっと同じように戦う者たちがいる。だが誰も互いの苦境を知らない。助けを呼びに走った使者は、国境を越える前に日が暮れ、間に合わなかった。
——里ごとに戦っているだけでは、いずれ足りなくなる日が来る。
夜が更けきる頃、ようやく獣の波が引いた。焼け落ちた屋台の残り火が、あちこちで小さく燻っていた。泣きじゃくる子どもの声、崩れた壁の下敷きになった誰かを呼ぶ声が広場のあちこちから響いていた。ショウとジンは声のするほうへ、無言のまま駆け続けた。瓦礫をどけ、埃だらけの手を引き上げる。それを何度も繰り返した。
その夜、なんとか凌ぎきったあと、ショウは瓦礫の山に腰を下ろし、遠くの空を見上げた。隣には、肩で息をするジンがいた。

「生きてるか」
ジンがそう言いながら、汗に濡れた木刀の柄でショウの脛をこつんと突いた。ショウは答える代わりに短く笑った。笑うと、頬の擦り傷が引きつれて痛んだ。木刀を握っていた右手には、皮が剥け血のにじんだ痕が残っていた。
少し離れた場所では、リオが担ぎ出した老人の傍らにしゃがみ込み、水を飲ませていた。その背中は、いつもと変わらず静かだった。老人が何度も頭を下げるのを、リオはただ手を振って制していた。焼け焦げた上着の裾が、風に力なくはためいていた。
ショウは足元に転がっていた瓦礫の欠片を拾い上げ、しばらくの間それを握りしめたまま動かなかった。
焼け跡の匂いは、翌朝になってもまだ町のあちこちに残っていた。崩れた屋根の下から運び出された荷物を、持ち主が黙って拾い集めていく。誰も大きな声で泣いてはいなかった。ただ、疲れきった手つきだけがあちこちで動いていた。
役人たちが被害を確かめて回っていた。西の砦からの伝令は、街道の途中で日が暮れ、結局一晩遅れて届いたのだという。その話が広場に伝わるたび、瓦礫を積む手を止め、しばらく黙り込む者があちこちにいた。
翌朝、瓦礫の片付けに出た広場で、ジンが疲れた顔のまま笑った。
「お前、妙なことを考える顔をしてるな」
「里の垣根を越えられないかと思って」
ジンは担いでいた木材をいったん地面に下ろした。しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「馬鹿げてる。……だが、悪くない話だ」