第一部『希望の灯』
ツキノワ 第9話「篝火」
「見に行くべきだと思う」
ショウがそう切り出すと、詰所の中が一瞬静まり返った。西の火床跡の噂は、この数ヶ月で詰所の隅から表沙汰の話題へと変わっていた。それでも、実際に足を運ぼうという者は一人もいなかった。
「触らぬ神に祟りなし、と言うだろう」
誰かがそう茶化して笑いを取ろうとしたが、あまり広がらなかった。詰所の空気には、笑いでごまかしきれない不安が確かに滲んでいた。
「昔からある言い伝えだ。放っておけばいい」
年嵩の職人がそう言って手を振った。ショウは、それ以上は言い返さなかった。ただその夜、一人で火床跡へ向かった。
岩肌に手をかざすと、確かにかすかな熱があった。長い年月、完全に冷え切っていたはずの場所だった。理由はわからなかった。それでも、その熱に触れた瞬間、背筋を冷たいものが伝った。

翌朝、詰所に戻ったショウに、誰も何があったかを尋ねなかった。ただリオだけが、ショウの手の汚れ具合を見て何かを察したように片眉を上げた。
「懲りない奴だ」
それだけ言って、リオは干し肉を一切れ、ショウの手に押しつけた。ショウは、それを黙って受け取った。
◆
界暦六千二百年、その噂は山の外にまで届くようになっていた。聖域監視区の古老たちが調べに来たが、首を傾げるばかりで誰も理由を語れなかった。古老たちは火床跡の入り口に注連縄のようなものを張り、それ以上の詮索を禁じただけで山を下りていった。
「結局、何もわからずじまいか」
古老たちを見送ったあと、若い職人の一人が拍子抜けしたように呟いた。ショウはその言葉に頷きながらも、火床跡に手をかざしたときの、あのかすかな熱を指先がまだ覚えていた。
「気のせいだ、で済ませていいものか」
ある夜、鍛冶場の火を落としながら、ショウはガドンにそう切り出した。ガドンは槌を布で拭う手を止めずに鼻を鳴らした。
「気のせいでないなら、何だと言うんだ」
「わからない。ただ……」
ショウは言葉を探した。あの夜、エドニマウの市街地区に、まものが数えきれないほど一斉に現れたときの光景が脳裏をよぎった。手のひらに、まだ木刀の柄の感触が残っているような気がした。助けを呼ぶ声は、隣の里にすら届かなかった。
「見張りの火を、山じゅうに繋げられないか。一つの里で異変を見つけたら、すぐに隣の里へ伝わるように」
ガドンは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。詰所の炉が、ぱちりと爆ぜる音だけが響いた。
「里ごとに戦うだけでは、いつか足りなくなる、か」
「……前に、似たようなことを口にした覚えがある」
ショウが呟くと、ガドンは片眉を上げた。
「覚えがある、とは妙な言い方だな」
「昔の話だ」
それ以上は説明しようがなかった。ガドンは、それ以上は追及せず、しばらく槌の柄を指先で軽く叩いていた。
「悪くない。まずは、山の中だけで試してみよう」
ガドンはそう言うと、槌の手入れの手をようやく再開した。決めたことは、それ以上口にしない性分だった。
その一言に、詰所にいた数人が驚いたように顔を上げた。ガドンが、こうした思いつきに二つ返事で頷くことは滅多になかった。
◆
試みは、思ったよりも難航した。火を絶やさぬための薪の量、狼煙が誤って敵の襲来と誤認されないための合図の作法、山肌に沿って火を渡すための見張り台の配置。ひとつ決めるたびに、新しい問題が湧いて出た。
一度、隣の谷の見張り番が合図を読み違え、詰所総出で山を駆け上がる騒ぎになったことがあった。何ごともなかったとわかると、皆、疲れた顔で笑い合った。ガドンだけは笑わずに、合図の作法をその場で一から書き直させた。
「間違えて笑い話で済むうちに、直しておけ。本番で間違えれば、それで終わりだ」
その一言に、詰所の空気が引き締まった。書き直された作法は、その後二度と混乱を招くことはなかった。
ショウは暇を見つけては山の尾根を歩き回った。見晴らしのいい岩場に印をつけ、次の見晴らし場所までの距離を足で測った。雨の日も風の強い日も、休むことはなかった。詰所の若い職人たちは、初めのうちその姿を物好きだと笑っていたが、そのうちの何人かは、いつしか自分から測量を手伝うようになっていった。
リオは、その散歩じみた作業に、時折何も言わずについてきた。
「お前は、いつも何かを繋げようとするな」
ある日、尾根の上でそう言われたことがあった。ショウは、うまく答えられなかった。ただ、繋がっていない里同士の間に横たわる、あの夜のような沈黙を、二度と見たくないだけだった。
「悪いことじゃない」

リオはそれだけ付け足すと、遠くの山並みをしばらく眺めていた。その横顔に、ショウはふと、暗黒街の水たまりの前で初めて手を差し出されたときのことを重ねた。あの手の温かさが、今も指先のどこかに残っているような気がした。
「お前がいなければ、この思いつきも、ただの夢物語で終わっていたかもしれない」
ショウがそう漏らすと、リオは意外そうに眉を上げた。
「俺は、何もしていないぞ」
「そうかもしれない。それでも」
それ以上は、うまく言葉にならなかった。リオは、それ以上を求めず、ただ尾根を渡る風に、しばらく目を細めていた。
ドワーフの長い寿命をもってしても、五十年という歳月は、けっして短いものではなかった。それでも、一つの仕組みを形にするには足りる長さだったというだけのことだった。界暦六千二百五十年頃、鍛冶組合の技術と、ショウの発案が組み合わさり、見張りの篝火を連ねて異変を伝える仕組みの原型が、ついに形になった。まだ粗末で、山の中だけの小さな試みに過ぎなかった。
仕組みが形になったと聞きつけ、隣の谷を治める小さな里の代表が、様子を見に訪れたこともあった。代表は、火の連なりを一通り眺めたあと、腕を組んで唸った。
代表は、それから、松明を掲げる見張り番の若者をしげしげと眺めた。
「これを、谷の外にも広げられるのか」
「まだわからない。だが、広げられない理由もない」
ショウがそう答えると、代表はしばらく考え込んでから小さく頷いた。
「うちの見張り台も、貸してやろう。試すだけなら、損はない」
その一言をきっかけに、篝火の仕組みは少しずつ山の外へも枝を伸ばし始めた。見張り台の数が増えるたび、地図に描き足す線も増えていった。最初はただの思いつきだったものが、今では、山を越えて広がる網の形を少しずつ帯び始めていた。
初めて三つの見張り台を同時に灯した夜、詰所の者たちは、それぞれの持ち場に散っていった。ショウは尾根の一番端に立ち、その光の連なりを見つめていた。手元の松明が、風にあおられて大きく揺れた。
一つ目の火が灯り、二つ目が応え、三つ目が最後に灯るまで、数えるほどの間しかかからなかった。三つの火は、闇の中に、まるで一本の線のように並んで見えた。

「届いたぞ!」
遠くの見張り台から、誰かの声が夜風に乗って届いた。ショウは、その声に拳を握りしめた。ガドンが隣で、腕を組んだまま満足げに頷いていた。
「これが、始まりだな」
ガドンの声には、これまでにない静かな熱があった。それから、ふらつくように岩肌に手をついた。
「大丈夫か」
「なんでもない。……歳を取ると、火の熱でも、こたえるようになるらしい」
ガドンはそう言って笑い飛ばそうとしたが、その笑い方は、いつもより、どこか弱々しかった。傍らに立っていたリオの視線が、その一瞬、ガドンの手元へ落ちた。何かを言いかけてはやめる仕草を、二度繰り返した。ショウは、その視線の意味を、うまく言葉にできなかった。