第一部『希望の灯』
ツキノワ 第10話「試し打ちの果て」
「大丈夫だ、と言っているだろう」
ガドンはそう言って、ショウの差し出した手を、いつものように払った。足元がわずかにふらついたことに、本人だけが気づいていないようだった。だが、その日以来、詰所の中でガドンが槌を振るう回数は、目に見えて減っていった。
篝火の仕組みは、その頃には山を越え、いくつもの谷を結ぶまでに育っていた。見張り台の数を数えるのに、両手だけでは足りなくなっていた。遠く離れた谷の代表が、詰所まで礼を言いに来ることも珍しくなくなった。それでも、ガドンはその広がりを喜ぶより先に、若い職人たちの指導に、より多くの時間を割くようになっていた。
「仕組みは、人が守らなければすぐに廃れる」
それだけ呟くと、ガドンは見張り番の交代表を自ら書き直すようになった。かつて槌を振るうことに費やしていた時間の多くが、今はその細かな作業に取って代わられていた。
「俺の目の黒いうちに、次を仕込んでおかんとな」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。
その夜、尾根の見張り台で、ショウはリオと二人、篝火の番をしていた。
「ガドンは、気づいているんだろうな」
リオが火の粉を見つめながら、ぽつりと言った。ショウは頷く代わりに、薪を一本、火にくべた。
「お前は、こういうのを何度も見てきたのか」
ショウが尋ねると、リオはしばらく黙ってから短く笑った。
「さあな。数えたことはない」
本気で答える気がないのは口調だけで知れた。ショウは、それ以上を追わず、ただ火の粉が夜空に消えていくのを、リオと並んで眺めていた。火の爆ぜる音だけが、しばらく二人の間に続いた。

◆
界暦六千三百年代、ガドンは詰所の若手の中から一人の弟子を選び、跡目として仕込み始めた。厳しい指導は、ショウが受けたそれと寸分違わなかった。
「話にならんな」
弟子が槌を外すたび、ガドンはそう言って首を振った。ショウは、その光景に、かつての自分を重ねずにはいられなかった。手直しの仕方まで、あの日と同じだった。
「親方は、あんたにも同じことを言ったのか」
ある晩、稽古終わりの弟子が疲れた顔でショウに尋ねてきたことがあった。
「一言一句、変わらないくらいにな」
ショウがそう答えると、弟子は力なく笑った。それでも、翌朝には、また金床の前に立っていた。
年月が過ぎるごとに、ガドンの背は少しずつ丸くなっていった。声の張りも以前とは違っていた。槌を握る手も、以前ほど長くは持たなくなった。それでも、金床の前に立つときだけは、誰よりも姿勢を正した。弟子の打った刃を検分する目つきだけは、衰える気配がなかった。
界暦六千四百年の冬、ガドンはある朝、床から起き上がれなくなった。前日までは、いつも通り、弟子の打った刃を検分していた。それだけに、詰所に広がった報せは、誰もが半信半疑だった。
ショウが駆けつけると、ガドンは寝床の上で天井をぼんやりと見上げていた。傍らには、リオが静かに腰を下ろしていた。いつ戻ってきたのか、ショウは知らなかった。窓の隙間から、冷たい風が細く吹き込んでいた。
「医者は、なんと」
ショウが小声で尋ねると、リオは首を横に振るだけだった。それだけで十分だった。
弟子たちが詰所の入り口に集まり、中の様子を伺っていた。誰も声をかけようとはしなかった。ただ、寒さのせいだけではない震えを、その場の全員が抱えているのが、ショウにもわかった。
「情けない姿だな」
ガドンは自嘲するように口の端を歪めた。声は掠れていた。
「まだ、教えることが残っているんじゃないのか」
ショウが言うと、ガドンはしばらく黙ってから首をわずかに横に振った。
「もう、十分だ。試し打ちは、やり尽くした」
窓の外では、槌の音がいつものように響いていた。弟子たちが、まだ知らずに仕事を続けている音だった。
「お前を、山で拾ったときのことを、覚えているか」
「忘れるはずがない」
「あのとき、俺は、お前の何を試したと思う」
ショウは答えられなかった。ガドンは、それに満足したように目を細めた。
「打つ手じゃない。……何度打ち直されても、また槌を持つかどうかだ。お前は、それを持ち続けた」

ガドンは、そこで小さく咳き込んだ。ショウは慌てて背中に手を添えたが、ガドンはうるさそうに肩をすくめて、その手をどけさせた。声にする元気はなくとも、態度だけは、いつもと変わらなかった。
その一言に、ショウは鼻の奥がつんと痛むのを感じた。何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。膝の上に置いた手だけが、かすかに震えていた。
「親方」
「もういい。呼び方は、好きにしろ」
それだけ言って、ガドンは少しの間、目を閉じた。それから、思い出したように、また口を開いた。
「篝火の仕組みは、あの跡目に任せておけ。あいつは、俺よりも細かいことに気づく質だ」
「わかっている」
「奴には、まだ言っていないが……見張り台をもう三つ、東の尾根にも足すといい。あそこは、風向きが読みにくい」
最後の最後まで、仕事の話だった。ショウは笑いそうになるのを堪えた。
「お前は」ガドンは、そこで一度言葉を切った。「お前は、まだどこかへ行くんだろう。その顔を見れば、わかる」
ガドンはそう言うと、大きく息を吐いた。それから、ゆっくりと目を閉じた。呼吸は、次第に間遠になっていった。窓から差し込む光が、ガドンの顔を静かに照らしていた。
やがて、その息は止まった。眠るように穏やかな最期だった。詰所の壁に掛けられた、無数の試し打ちの記録板が、その光を鈍く反射していた。
リオが、何も言わずに、ガドンの傍らに寄り添っていた。ショウは、握りしめたガドンの手が、ゆっくりと冷えていくのを、ただ感じていた。リオを見送った、あの雪の夜とはまた違う痛みだった。血の繋がらない師を、この新しい生で見送るのは、これが初めてだった。胸の内側を、鈍い刃でゆっくりと削られているような、覚えのない感覚だけがあった。
弟子が駆け込んできて、その場に崩れ落ちた。詰所の外では、いつの間にか槌の音が、すべて止んでいた。
葬儀は、山の作法に則り、ごく簡素に行われた。棺の代わりに、ガドン自らが打った最後の一振りが、遺体の傍らに添えられた。弟子たちは、誰も声を上げて泣かなかった。ただ金床の前に並び、順番に一度ずつ槌を打ち鳴らした。その音が、谷にいつまでも響いていた。
篝火の仕組みを伝え聞いた、遠くの谷の代表たちも、幾人か弔いに訪れた。誰もが口を揃えて、ガドンの頑固さと、その頑固さゆえに信頼できた仕事ぶりを語った。中には、若い頃のガドンに命を助けられたという老人までいた。ショウは、その一つひとつに頷きながら、自分の知らないガドンの顔が、まだいくつもあったのだと知った。
数日後、詰所に戻ったショウは、誰もいない鍛冶場で、ガドンが最後に手入れしていた槌を、そっと手に取った。柄の握りの跡は、自分のものとよく似た位置に、深く刻まれていた。長年、同じ姿勢で同じ場所を握り続けてきた証だった。炉の火は、まだ落とされずに赤く灯り続けていた。
「試し打ちからだ、と言われたのが、昨日のことのようだ」
呟いた声は、思ったより掠れていた。誰に聞かせるでもない独り言だったが、傍らに立っていたリオが、それに小さく頷いた。
その日から、ショウは詰所の鍛冶場に一人で通うようになった。誰に頼まれたわけでもなかった。槌を振るうたびに、「打つ手じゃない。何度打ち直されても、また槌を持つかどうかだ」というガドンの声が、耳の奥で繰り返し聞こえた気がした。鋼を何度も折り返し、水に沈め、打ち直した。焼き入れに失敗してはやり直す夜が、幾晩も続いた。
出来上がったのは、拵えも銘も持たない、ただの直剣だった。それでも柄を握った瞬間、これまで振るってきたどの木刀よりも、掌にしっくりと馴染んだ。リオに手ほどきを受けたあの木刀は、もう戦うためのものではなくなった気がした。ショウはそれを布に包み、荷物の奥、肌身離さぬ場所にしまった。
「お前は、まだどこかへ行くんだろう」——ガドンの最後の一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。ショウは打ち上げたばかりの剣を腰に佩くと、東の空を、まっすぐに見据えた。

「東へ、行こうと思う」
誰に告げるでもなく、ショウはそう口にした。窓の外で、光が静かに満ちようとしていた。