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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第11話「歌合の森」

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森は、山とはまるで違う世界だった。

音という音が、どこか柔らかく丸みを帯びて聞こえた。木々の隙間から差す光は、風もないのに旋律のように揺れて見えた。ショウは、生まれたばかりのエルフの体で、その光の揺らぎからしばらく目を離せなかった。

生まれたばかりのエルフの体で、旋律のように揺れる木漏れ日に見入るショウ

体はまだ細く頼りなかった。指も耳の先も、これまでのどの生よりも長く伸びていた。歩き出すたび木の根に足を取られ、危うく転びかけた。

木々の匂いは、山の岩と炭の匂いとはまるで違っていた。湿った土と、名も知らない花の香りが、まとわりつくように鼻の奥に残った。声を出そうとすると喉の奥がひどく細く感じられ、思うような音が出せなかった。それでも、森の奥から響いてくる、聞いたことのない調べに誘われるように、ショウは光の差す方角へと歩き続けた。

森の境界、禁忌の地に近い見張り所で、一人の番人と出会った。長い年月、たった一人でそこに立ち続けてきたとわかる、静かな佇まいの人物だった。

「西から来たと聞いている。……鍛冶の里で、見張りの火を繋いだそうだな」

「はい。この森にも、同じ仕組みを持ち込めないかと」

そう答えながら、ショウはまだ慣れない長い指先を、無意識に握りしめていた。

それがローエンだった。「第七連は歌ってはならない」という掟を、何百年もたった一人で守り続けてきたのだという。

ローエンは、長い間ショウの顔を無言のまま見つめていた。それから、確かめるように、もう一度口を開いた。

「歌もまた、遠くまで届く。火と歌、性質は違うが、伝える、という一点では同じかもしれん」

◆

それから数十年、ショウはローエンや歌合の会の歌い手たちと共に、西で生まれた見張りの仕組みを森の隅々にまで広げていった。篝火の代わりに、この森では合図の歌が谷から谷へと渡された。数十年経っても、ローエンの佇まいは、初めて会った日の姿のままだった。この森の時の流れは、山の民のそれとは、明らかに違う速さで過ぎていくらしかった。

「第七連にだけは、絶対に触れるな」

ローエンは、事あるごとにそう釘を刺した。理由は最後まで語らなかった。ショウも、それ以上は聞かなかった。触れてはならないものがあるという掟の重さだけは、鍛冶の山の作法にも通じるものがあった。

「西の里では、己の出来を他人の手で確かめるそうだな」

ある夜、焚き火を囲みながら、ローエンがそう尋ねてきたことがあった。

「試し打ち、と呼んでいます」

「歌も、似たようなものだ。……一人で歌う歌は、どこまでいっても独りよがりにしかならん」

ローエンの声には、長い年月をかけてしか出せない静かな重みがあった。ショウは、その重みに、かつて槌を交えたガドンの声をふと重ねた。姿も生きる里も違うのに、確かめようとする芯の部分だけは、驚くほどよく似ていた。

歌合の会に集う歌い手たちは、初めのうち余所者のショウを遠巻きにしていた。だが、篝火の仕組みが火のない森でも通用することを知ると、次第に稽古の輪に招き入れるようになった。

「お前の声は、まだ硬いな」

年嵩の歌い手の一人が、そう言って喉の使い方を直してくれたことがあった。教わった呼吸を一つ試すたび、ショウの声は少しずつ森の空気に馴染んでいった。

谷から谷へ、合図の調べを渡す試みは、火よりも扱いが難しかった。同じ節でも、歌い手の癖ひとつで届く速さも伝わる意味も変わってしまう。ショウは、幾つもの谷を渡り歩き、それぞれの歌い手の癖を根気強く聞き分けていった。

歌い手の中には、生まれつき声の届く距離が短い者もいた。そうした者には、節を短く区切り、隣の歌い手へすぐに渡す役目を与えた。誰か一人の欠点を、仕組み全体の弱さにしないための工夫だった。ローエンは、その采配を黙って見ていることが多かった。

ある嵐の夜、風の音に紛れて、隣の谷の歌い手の声が途中で途切れてしまったことがあった。受け取った側の谷では、まものの群れが迫っていると勘違いし、老人や子どもを夜通し洞穴へ避難させる騒ぎになった。翌朝、勘違いだったとわかると、避難していた者たちは疲れきった顔で肩を落とした。ローエンだけは、その顛末を聞いても表情ひとつ変えなかった。

「歌は、風に消えることもある。……声が届かないときの取り決めも、次までに作っておけ」

それだけ言うと、ローエンは嵐の跡片付けに黙々と加わり始めた。

森に慣れ始めたある日、木々の合間に見覚えのある姿が佇んでいた。エルフの姿に変わっていたが、こちらを見る目の柔らかさだけは変わりようがなかった。

「今度は、随分と早く辿り着けたな」

リオは、そう言って笑った。ショウは何も聞かずに、その手を握った。何度目かの再会のはずなのに、そのたびに胸の奥が、初めて会った日と同じ強さで熱くなった。細く伸びた指の先まで、その熱が届いていく気がした。

木漏れ日の中、エルフの姿となったリオと何も聞かずに手を握り合うショウ

エルフの体つきになったリオは、以前よりも声の響きが澄んでいた。それでも、笑うときに少しだけ目を細める癖は、どの姿になっても変わらなかった。

「早かったか」

「ああ。前より、ずっと」

その一言に、リオは少し驚いたように目を見開いた。それから、いつものように、はぐらかすような笑い方をした。

「そうか。……なら、次はもっと早いかもしれんな」

冗談とも本気ともつかない口ぶりだった。ショウは、その言葉の意味を深く尋ねはしなかった。

以後、リオは歌合の会の一員として、ショウの傍らで暮らすようになった。相変わらずの気まぐれな癖は健在だったが、この森でだけは、以前より姿を消す間隔が目に見えて短くなっていた。夜、見張り台で肩を並べる回数も、以前の生より確かに増えていた。

「今夜は、どこにも行かないのか」

ある晩、ショウがそう聞くと、リオは少し驚いたように眉を上げた。それから、いつものはぐらかしとは違う、静かな声で答えた。

「ああ。今夜は、ここにいる」

ローエンは、そんな二人の様子を、遠くから何も言わずに見ていることが多かった。ある日、ショウが尋ねると、ローエンは短く笑った。

「詮索はしない。……ただ、お前たちの間合いは、歌合の呼吸によく似ている」

その言葉に、ショウはうまく答えられなかった。ただ、隣を歩くリオの足音が、いつのまにか自分の歩幅にぴたりと合っていることに、初めて気づかされた。木々の隙間を抜ける風の音だけが、しばらく二人の沈黙を埋めていた。

歌合の祭の夜、勝敗の後に交わされるのは、頭を下げる礼ではなく、互いの歌の名残を静かに聴き合う沈黙だった。手合わせの礼とも、試し打ちの検分とも違う、この森だけの作法だった。

歌合の祭の夜、蛍の灯る森で互いの歌の名残を静かに聴き合うショウとリオ

ショウは、その沈黙の中に立つたび、これまで通り過ぎてきた里それぞれの流儀が、少しずつ自分の中に積み重なっていくのを感じた。

祭の後片付けをしながら、ショウは、隣で楽器をしまうリオに、ふと声をかけた。

「この森は、居心地がいいか」

「悪くない。……お前がいるところなら、大抵は悪くない」

リオは、それだけ言うと、楽器を布に包む手を止めなかった。ショウは、その横顔をしばらく黙って眺めていた。

その帰り道、木々の合間から、遠い禁忌の地の奥へ続く道が、ふと目に入った。その奥から、微かな旋律が漏れ聞こえてくる気がした。誰の歌なのか、確かめる術はなかった。

「あそこには、何があるんですか」

ショウが尋ねると、ローエンは珍しく即答しなかった。長い沈黙のあと、足を止め、ようやく口を開いた。

「知らないほうがいい類のものだ。……少なくとも、今は」

その声には、これまで聞いたどの言葉とも違う、何かを押し殺すような響きがあった。

(第12話「三つの灯」へ続く)

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