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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第12話「三つの灯」

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森の朝は、いつもと変わらず静かに始まったはずだった。

「西の里から、使いが来ている」

ある朝、ローエンが、めずらしく急いだ様子でショウを呼びに来た。詰所を出て見張り所へ向かうと、旅装のドワーフが一人、息を切らせて立っていた。長旅の埃を、まだ払う暇もない様子だった。

「鍛冶組合からだ。西の谷で、まものの動きが妙に激しい。中央の広場にも使いを出したという」

使いはそう言うと、懐から油紙に包まれた書状を取り出した。差出人の名は、ガドンの跡目のものだった。ショウは、その字面を見た瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。ガドンが世を去ってから、すでに二百年近い歳月が過ぎていた。それでも跡目は、あの日渡された仕組みを忘れず、代を継いでなお律儀に伝えてきたのだとわかった。

「西と、中央と、この森と——三つの里で示し合わせられないか。そう書いてある」

ドワーフの使者が届けた書状を、ショウとローエンが見張り所で読み上げる

書状の端には、几帳面な字で、見張りの合図の手順まで細かく書き添えられていた。

ローエンが、書状を読み上げながら言った。ショウは、その一文を指でなぞるように、もう一度目で追った。

「歌で、隣の谷へ回せるか」

ローエンに問われ、ショウは頷いた。その日のうちに、森の隅々まで異変を告げる歌が渡っていった。歌い手たちは、これまでの稽古通り、次の谷へ、また次の谷へと節を繋いでいった。誤りはなかった。

数日後、西からの報せが再び届いた。中央の手合わせ衆も、すでに動き出しているという。三つの里が、初めて同時に、異変への備えを始めようとしていた。

◆

界暦六千六百年、初めての大きな試みが行われた。西の鍛冶組合、中央の手合わせ衆、東の歌合の会——三つの里が示し合わせて、一斉にまものへ対応したのだ。

篝火が連なり、歌が谷を渡り、中央からの伝令が街道を駆けた。まものの群れが西の谷へ現れたとき、東の森の見張り番は、報せを受けてから半日と経たぬうちに、応援の一隊を送り出すことができた。かつて群発の夜、隣の里にすら助けが届かなかった、あの夜とはまるで違う結末だった。北の地だけが、まだこの輪に加わっていなかった。それでも、三つの里が同時に動くのを見るのは、これが初めてだった。

森の高台に立ち、ローエンは、遠く西の空に上がる狼煙をしばらく見つめていた。

「三つが繋がるところを見られるとはな」

その声には、いつもの淡々とした調子とは違う、確かな熱があった。

「お前が言っていた夢は、思っていたより早く形になった」

「まだ、四つ目が残っています」

ショウは北の空を見やった。渦の淵に近いあの地には、まだ会ったことのない民が暮らしているという。旅の商人から、鏡と氷に閉ざされた土地だと聞いたことはあったが、それ以上のことは誰も詳しくは知らなかった。ローエンは、それに対して何も言わなかった。ただ、北の方角をしばらく一緒に見ていた。

その後の数十年、三つの里の連携は少しずつ形を整えていった。誤報のたびに取り決めを見直し、報せの速さを競うように、見張り番たちは腕を磨いた。西の鍛冶組合からは頑丈な狼煙筒が届き、中央の手合わせ衆からは街道を駆ける伝令の心得書きが送られてきた。ローエンは、その様子を見るたび満足そうに頷いた。

「お前が持ち込んだものは、思っていたより、しぶとく根を張るな」

「悪い意味ですか」

「まさか。褒めているんだ」

そのやり取りに、周りの歌い手たちが小さく笑った。誰かが、その日の稽古の続きを促す歌を口ずさみ始め、笑い声はいつもの稽古の空気に溶けて消えた。

その夜、リオと二人、見張り台で祝杯を交わした。

「お前の言っていたことが、本当に形になったな」

リオがそう言って、木の杯を掲げた。ショウは、それに応えるように杯を合わせた。硬い音が、静かな森に響いた。

三つの里が心を一つにした夜、見張り台で木の杯を交わし合うショウとリオ

「まだ、途中だ」

「わかっている。それでも、今夜くらいは、喜んでいいだろう」

リオの声は、いつになく穏やかだった。ショウは、その横顔を見ながら、杯の中身を一口だけ多く飲んだ。

「北の地に着いたら、また一から仕組みを説かなきゃならないな」

ショウがそう漏らすと、リオは声を立てて笑った。

「面倒なら、俺が先に行って、話をつけておいてやろうか」

「お前が先に行くと、いつも余計なことを吹き込む」

「人聞きの悪いことを言うな」

軽口を叩き合いながら、二人は夜が更けるまで見張り台の火を絶やさなかった。谷の向こうから、微かに歌の練習をする声が風に乗って届いていた。

◆

界暦六千七百年に至るまでの百年、ショウとリオは変わらず歌合の会に身を置き続けた。エルフの長い生の中では、それでもまだ若手の部類だった。年老いていく里の代表たちを幾人も見送りながら、ショウは見送りの席に立つたび、無意識に隣に立つリオの横顔を確かめるように見るようになっていた。

森の若い歌い手たちの中には、ショウとリオを、二人一組の「渡り鳥」と呼ぶ者もいた。どこへ行くにも、必ず連れ立っているという意味だった。ショウは、その呼び名を、まんざらでもない気持ちで聞いていた。

界暦六千七百年頃、禁忌の地に近い外れで、これまでにない禍々しさを纏った獣の噂が立ち始めた。

「輪郭が、分厚く黒ずんでいるという。他のまものとは、明らかに違うと」

見張り番の一人が、震える声でそう報告してきた。ショウは、その話に、覚えのある胸騒ぎを感じた。西の火床跡で覚えた、あの理由のわからない予感とよく似ていた。

見張り番の声は上ずり、途中で何度もつかえた。ほつれた獣は、いつも輪郭が薄く崩れやすいものだった。だが今度ばかりは、目にした瞬間、腰を抜かし、しばらく口をきけなかったのだという。持ち場に戻ってからも、その手の震えはなかなか収まらなかった。

ローエンは、その報告を聞くと、珍しく、しばらく黙り込んだ。長年変わらなかったその顔に、初めて見る種類の翳りが差した。それから、低い声で呟いた。

「……これが、あの奥から漏れていたものか」

その一言に、ショウは、聞き覚えのある胸騒ぎが一段と強まるのを感じた。喉の奥が急に渇いた気がした。手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。

「見に行く」

ショウが立ち上がると、リオも無言で武具に手を伸ばした。

「お前は残れ」

「お前だけを行かせるほど、耄碌してはいない」

リオは、それだけ言うと先に歩き出した。ショウは、その背中を追いながら、なぜか胸の奥に、これまでにない不穏な重さを感じていた。道すがら、木々の枝という枝から、鳥の声がすっかり消えていることに、ショウは気づいた。

禁忌の地に近い森の外れ、木々が不自然に立ち枯れた一帯に、その獣はいた。輪郭は分厚く黒ずみ、他のほつれた獣とは明らかに一線を画す禍々しさがあった。近づくだけで、肌がひりつくような重い気配が漂っていた。西の山でも、中央の里でも、誰も見たことのない類のものだった。

同行した歌合の若手たちは、その姿を目にしただけで、後ずさりして動けなくなった。手にした弓が小刻みに震えていた。ショウは、彼らに下がっているようにと短く告げた。

獣が、低く、地の底から響くような唸り声を上げた。立ち枯れた木々が、その振動だけで、パラパラと灰のような欠片を落とした。地面そのものが、かすかに震えているようだった。

「下がっていろ」

リオが、そう短く言うと、獣の前に進み出た。木々の隙間から差す光さえ、今日はどこか色を失って見えた。ショウは、その背中に、これまで感じたことのない、ざらついた予感を覚えた。

立ち枯れた木々の中、輪郭の黒ずんだ禍々しい獣を前に進み出るリオと、後ろで見守るショウ

(第13話「消えた灯」へ続く)

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