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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第13話「消えた灯」

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禁忌の地に近い森の外れ、立ち枯れた木々の向こう、あの禍々しい獣は、じりじりと間合いを詰めてきた。低い唸り声が、地面を通して足の裏に響いた。同行していた歌合の若手たちは、すでに安全な場所まで下げていた。木々の間を吹き抜ける風さえ止み、この場に残っているのは、ショウとリオだけだった。

リオが先に動いた。横に大きく跳び、獣の側面へ素早く回り込みながら、木刀を前足の付け根へ振り下ろした。

確かな手応えはあった。だが、獣は怯まなかった。分厚い輪郭が、ただうねるように波打っただけだった。

「効いていない……! 硬すぎる!」

ショウが叫んだ。リオは、それに答える余裕もなく、次の爪を、体をひねってかわした。土埃が激しく舞い、木々の焼け焦げた匂いが、あたりに立ち込めた。

獣の太い尾が、大きく鋭く振り上げられた。狙いは、獣を挟むように回り込んでいたショウの方だった。

「危ない……!」

リオの声が響いたのと、リオの体がショウの前に割り込んだのは、ほとんど同時だった。尾の直撃を、リオが、その身ひとつで真正面から受け止めた。

獣の尾がショウを狙った瞬間、その身ひとつで受け止めるリオ

鈍い音がした。リオの体が宙を舞い、木の幹に叩きつけられた。折れた枝が、いくつも、その上に降り注いだ。土煙が、しばらく晴れなかった。

ショウは、その光景に、一瞬、体が動かなくなった。今の一撃の狙いは、ついさっきまで自分が立っていた場所だった。剣を握る手が勝手に震え出し、足も思うように前へ出なかった。

「リオ!」

ショウは駆け寄ろうとした。だが、獣が、その進路に分厚い体を割り込ませた。ショウは剣を握り直し、獣の横腹めがけて渾身の力で薙ぎ払った。獣は、初めて低く唸ると、まるで禁忌の地の奥に潜む何かの気配を恐れるように身をよじり、それ以上は深追いせず、踵を返すように音もなく森の奥へと退いていった。

◆

木の幹の下、リオは体を起こそうとして、うまくいかなかった。ショウが駆け寄ると、リオは口の端をわずかに歪めた。

「悪いな……今度ばかりは、間に合わなかった」

「なぜ、庇った」

ショウの声は、抗議のような響きを帯びていた。リオは、それに答える代わりに小さく息を吐いた。血の気の引いた唇が、それでも、いつもの軽さを保とうとしていた。

「喋るな。今、手当てを」

「無駄だ。……それくらいは、俺にもよくわかる」

リオは、そう言って自分の胸元をちらりと見下ろした。

リオの声は掠れていたが、震えてはいなかった。ショウは、その体を抱え起こした。傷口を押さえる手のひらの下で、鼓動が目に見えて弱くなっていくのがわかった。

「なぜ、笑っていられる」

ショウが震える声でそう聞くと、リオは、しばらく考えるように目を細めた。

「笑っていないと、お前がもっと辛い顔をするだろう」

軽口のようで、軽口ではなかった。ショウは、それ以上、何も聞き返せなかった。折れた枝の隙間から、細い光が一筋、二人の間に差し込んでいた。

「約束しろ。まだ、どこかへ行くと」

リオは、しばらく答えなかった。荒い息だけが、その間を埋めていた。ショウは、その一呼吸ごとの間隔が確実に伸びていくのを、数えるように聞いていた。

「……何度でも」

リオは、それに頷こうとしたようだったが、体はもう、その仕草さえ拒んでいた。目だけが、ショウをまっすぐに見つめていた。

「ローエンに、伝えておいてくれ。……森は、悪くなかったと」

「自分で伝えろ」

「無理を言うな」

ショウは、その軽口に、うまく応えられなかった。ただ、腕の中の重みが、先刻よりも明らかに軽くなっているのを感じた。

「お前を見つけてよかった。……何度目の生でも、それだけは変わらなかった」

リオの手が、ショウの手を最後にもう一度、確かめるように握った。それから、その力がゆっくりと抜けていった。

腕の中で力を失っていくリオの手を握るショウ

「待て。まだ、聞きたいことが」

ショウの声は、もう、うまく形を成さなかった。

その言葉を最後に、リオの目から静かに光が消えた。

ショウは、しばらく声も出なかった。木々の隙間から漏れる光が、リオの穏やかな顔の上を、ただ静かに動いていくのだけを見ていた。

◆

ショウは、その場に泣き崩れた。人間の暗黒街で救われた夜から、ドワーフの山で再会した日、そしてこの森で交わした数えきれない夜まで——積み重ねてきたすべてが、この一瞬で失われた気がした。声にならない声だけが、いつまでも喉の奥から漏れ続けた。

報せを受けて駆けつけたローエンが、リオの亡骸の傍らに立ち、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。それから、静かに膝をつき、目を閉じた。

長い沈黙のあと、ローエンが、ようやく口を開いた。

「……こういう日が、来ないとは思っていなかった」

ローエンは、それだけ言うと、ショウの肩に、一度だけ、静かに、大きな節くれ立った手を置いた。歌合の会の誰かが、遠くで弔いの調べを低く口ずさみ始めた。その音は、ショウの耳には、ほとんど届いていなかった。

それでも、ショウは諦めなかった。

——精霊は、常にこの世界を見ている存在だという。ならば、精霊に頼めば。

その夜のうちに、ショウは、ローエンにも別れを告げず、森の奥、精霊たちが最も濃く息づくという禁忌の地の、さらに奥へと分け入った。第七連には触れるな——その掟のことさえ、頭からすっかり抜け落ちていた。剣も荷物も、何ひとつ持たずに歩き出していた。

幾日も、幾晩も、ショウは歩き続けた。獣に襲われても、身をかわす足が以前ほど動かなかった。飢えても、足を止めなかった。木の根に何度も足を取られ、倒れては、また立ち上がった。指先の感覚が、いつの間にか失われていた。

木々は、やがて見たこともない形に歪み始めた。枝という枝が互いに絡み合い、頭上を覆い尽くしていた。光は、ほとんど届かなくなった。それでも、ショウは進む方角を迷わなかった。

途中、水も尽きた。渇きに喉が張り付くようになっても、ショウは足を止めなかった。夢とうつつの境目が次第に曖昧になっていった。それでも、ただ一つ、リオの名前だけは頭の芯にはっきりと灯り続けていた。

倒れかけては起き上がる、その繰り返しの中で、耳の奥に、ガドンの掠れた声がふいに蘇った。——何度打ち直されても、また槌を持つかどうかだ。ショウは、土に汚れた両手をゆっくりと握り直した。

やがて、木々そのものが姿を消した。足元には、土でも岩でもない、ただ柔らかく沈み込む何かがあるだけだった。方角も距離も、もはや意味を持たなくなっていた。時折、遠くで何かが囁くような音がしたが、振り返っても何も見えなかった。

ようやくたどり着いたのは、光もなく音もない、けれど確かに何かの「気配」だけが満ちている場所だった。

「……聞こえているか」

答えはなかった。ショウは、その場に座り込み、来る日も来る日も、リオという名を呼び続けた。眠っている間さえ、その名だけは口の中で途切れなかった。

声が掠れ、やがて出なくなっても、ショウは口の動きだけで、その名を紡ぎ続けた。指先はとうに感覚を失い、体の輪郭さえ、闇に溶けていくようだった。それでも、ただ一つの名前だけが、ショウという存在の最後のよりどころだった。

光も音もない場所で、リオの名を呼び続けるショウ

幾夜が過ぎたころ、周囲の気配が、それまでとは違う揺らぎ方をし始めた。ショウは、閉じかけていた目をかすかに開いた。

やがて、ようやく、風のようなものが答えた。

(第14話「北へ」へ続く)

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