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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第15話「氷の回廊」

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空気そのものが澄んで、鋭かった。

吐く息が白く固まって、すぐに消えていく。北の地に降り立った最初の瞬間から、それだけは絶え間なく続いた。ショウは生まれたばかりのミラビトの体で、その冷たさに何度も足を止めた。指先の感覚が、以前の生よりもずっと繊細に研ぎ澄まされている気がした。指の爪の先まで、氷の粒子の一つひとつを数えられそうなほどだった。

体の輪郭も、これまでの生とはまた違う頼りなさがあった。歩幅を測るたび、足元がふわりと浮くような感覚に襲われた。それでも転ぶことはなかった。何かに、そっと後ろから支えられているような気がした。

見渡す限り、凍った湖面のような大地が広がっていた。どこを見ても、何かが映り込んでくる。氷そのものが鏡のように空の色を映していた。歩くたび、足元にもう一人の自分が逆さまに、静かに付いてきた。

道行く人々の姿も、これまでとはまるで違っていた。誰もが静かに、足音を殺すようにして歩いていた。声高に笑う者も、言い争う者も、どこにも見当たらなかった。

すれ違う誰もが、南から来た余所者という素性に格別の反応を見せなかった。ただ一様に、こちらの姿を一度だけ映すように見やり、すぐに視線を戻していった。エドニマウで浴びた石つぶてとも、ドワーフの山で受けた無遠慮な視線とも、また違う種類の距離の取り方だった。

——北の地は、これまでの三つの里とはまるで違う静けさを湛えていた。

ショウはその静けさに足を取られながら、氷と鏡でできた見慣れない街並みをゆっくりと進んだ。鏡守の会の門は、遠くからでもはっきりとわかった。氷の柱に囲まれた、ひときわ大きな門だった。

門をくぐってすぐ、氷の回廊の奥から駆け寄ってくる軽やかな足音がした。

「遅かったな」

その声に、ショウは立ち止まった。ミラビトの姿になっていたが、間違えようがなかった。

「もう百年以上、ここで暮らしていた。鏡の作法にも少しは慣れたぞ」

リオは笑いながら、そう言った。ミラビトの姿になった体は、これまでのどの姿よりも線が細く骨張っていた。それでも、差し出された手の握り方の強さだけは変わらなかった。

ショウはこみ上げるものを堪えきれず、氷の回廊の真ん中でその肩に顔をうずめた。周りを行き交う鏡守たちが物珍しそうに二人を一瞥して、また静かに通り過ぎていった。

氷の回廊の真ん中で、こみ上げるものを堪えきれずリオの肩に顔をうずめるショウ

エルフの森で別れてから今日まで、リオは一度も自分の傍らを離れたことがなかったのだと、ショウはこのとき初めて悟った。姿を消していたのではなかった。ただ、行き先を変えられた魂が一足早く、この地に流れ着いていただけだった。

「待つのは、退屈じゃなかったか」

ショウが聞くと、リオはふっと笑った。

「百年やそこら、待つ理由がわかっていれば、どうということもない」

その一言に、ショウは握った手に、思わずいつもより強く力がこもった。

「鏡守たちには、何と説明していたんだ」

「遠縁の弟のような者を待っている、と。……お前と会うまでは、誰も本気にしていなかったがな」

その口ぶりに、ショウは思わず笑い声を漏らした。何百年経っても姿が変わっても、変わらない言い訳だった。

◆

出迎えたのは、まだ若く見えるが目の奥に古い年月を湛えた女性だった。

「南から北まで、里をつないで歩いてきた魂だと聞いています。……渦の淵の話も、ご存じですね」

「はい。だからここへ来ました」

それがミシャラだった。当代の鏡守、承認印を持つ者として知られていた。若く見えるその容貌に反して、齢はすでに九百年に迫っているという。エルフの森で覚えた、時の流れの緩やかさとはまた違う類のものだった。あの森の時は、変わらぬ姿でゆっくりと積み重なっていくものだったが、この氷の地の時は、底の見えない深さで、静かに澄んでいくもののように感じられた。ミラビトの中でも、数えるほどしかいない古参の一人だった。物腰は静かだったが、こちらを見定める目には隙がなかった。

「渦の淵に近いこの地では、まもの——曇りと呼ばれるそれ——の出現が、ここ数十年で明らかに増えています。鏡守の会だけでは、もはや手が回らなくなりつつある」

ミシャラはそう言うと、手にした小さな手鏡を静かに掲げた。鏡面が灯りを受けて、細かくちらちらと揺れた。

小さな手鏡を静かに掲げ、合わせ鏡の仕組みを語るミシャラと、それを見つめるショウ

「合わせ鏡の会得は、時をかけて曇りを払う作法です。けれど今必要なのは、もっと速い知らせの手段」

ミシャラはそう言いながら、周囲の鏡守たちを見渡した。誰もが疲れた顔をしていた。渦の淵の見張りは交代で務まるものではなく、常に誰かが張り付いていなければならないのだという。

ショウはその手鏡を見つめながら、西の篝火、東の歌、それぞれが辿った試行錯誤の日々を順に思い返した。火を絶やさぬための薪の量、歌の届く距離と癖、そのどちらも一朝一夕には整わなかった。鏡もまた同じ道を辿ることになるのだろうと、ショウにははっきりとわかった。

「鏡面に映る光の揺らぎで、遠くの異変を伝えられるかもしれません」

ミシャラの一言に、ショウは指先が久しぶりに、じんわりと熱を持つのを感じた。

「手伝わせてください。西でも東でも、似たようなものを作ってきました」

ミシャラの片眉がわずかに動いた。

「西の篝火の話は、こちらにも届いています。……あれを興したのが、あなただったとは」

「一人で興したわけではありません。多くの人の手を借りました。ドワーフの親方にも、エルフの番人にも」

ショウがそう答えると、ミシャラは初めて興味深そうに目を細めた。

ミシャラはしばらく、ショウの顔を値踏みするように見つめていた。それから初めて、微かに口の端を緩めた。

「南から来た魂は、変わった話ばかり運んでくるようですね。……いいでしょう。まずは、この氷の性質から教えましょう」

ミシャラはそう言うと踵を返し、氷の回廊の奥へと歩き出した。ショウはその背中を追いながら、荷物の中の楽器を一度だけ強く握り直した。

その夜、リオがショウの荷物を宿舎まで運んでくれた。楽器の包みを開けると、リオは懐かしそうにその表面を撫でた。

「まだ持っていたのか」

「捨てられるはずがないだろう」

リオはそれに何も答えず、ただ静かに笑った。

「弾き方は、まだ覚えているか」

「腕は鈍っている。だが忘れてはいない」

リオはそう言いながら、指の関節を一本ずつ確かめるように曲げ伸ばしした。それから弦を一本、そっと弾いた。乾いた音が狭い部屋に小さく響いた。

宿舎の一室で楽器の弦をそっと弾くリオと、それを見つめるショウ。窓の外には氷の街の光

「この地には、こういう音はあまり似合わないかもしれないな」

「似合わせればいい」

ショウがそう言うと、リオは意外そうに眉を上げてから声を立てて笑った。窓の外では、氷の街が金色を帯びた月明かりを受け、無数の光をあちこちに反射させていた。

翌朝、ショウは鏡守の詰所で、ミシャラと二人きりになった。

「渦の淵には、私も一度、足を運んだことがあります」

ミシャラの声が、そこでわずかに低くなった。

「あそこは、鏡守が束になっても油断できない場所です。……曇りが増えている理由も、まだ誰にも分かっていない」

その言葉の端に、これまで聞いたどの報告とも違う確かな緊張が滲んでいた。周りに立っていた鏡守たちも一様に口をつぐんでいた。ショウはその空気を聞き逃さなかった。窓の外、氷の壁に反射した光が一瞬、大きく揺らいだように見えた。見間違いだと思いたかったが、そうは思えなかった。

「表に見えている以上のことが、起きているということですか」

ミシャラはそれにはっきりと答えなかった。ただ、手にした鏡を握り直しただけだった。指先が微かに白くなるほどの強さだった。その沈黙のほうが、どんな言葉よりも雄弁だった。

(第16話「合わせ鏡」へ続く)

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