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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第16話「合わせ鏡」

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渦の淵に近い前線は、氷の回廊よりもずっと張り詰めた場所だった。

「一人では、確かめられない」

ミシャラが手鏡を構えながら、そう言った。目の前には、輪郭の薄い曇りが一体、じっとこちらを窺っていた。

「合わせ鏡の作法とは、そういうものです。……魂の曇りは、己一人では決して見極められない。必ず他者と映し合わなければならない」

ショウはその言葉に頷き、自分の手鏡をミシャラの鏡と向き合うように構えた。二つの鏡面が曇りの輪郭を、互いに映し返した。光が交錯した瞬間、曇りは低く長い声を上げてから、その場に崩れ落ちた。

「効きました」

「まだ油断はできません。……これは始まりに過ぎない」

ミシャラの声は静かだったが、疲労の色が滲んでいた。渦の淵の前線に立つ夜は、それからも幾度となく続いた。危険な晩ほど、ミシャラは自ら先頭に立った。ショウはその背中を見るたび、かつてガドンやローエンが見せた背中をふと思い出した。

ある冬の晩、二体の曇りが同時に前線を割って現れた。ショウが一体を引きつけている間、ミシャラはもう一体の前に手鏡を構えて立った。氷交じりの風が二人の間を吹き抜けた。

「合わせろ」

ミシャラの短い一言に、ショウは手鏡の角度を瞬時に合わせた。二枚の鏡が呼応し、光の筋が交錯した。二体の曇りは同時に崩れ落ちた。荒い息をつきながら、ショウは鏡を握る手が、まだ震えていることに気づいた。

背中合わせに手鏡を構え、光の筋を交錯させて曇りを打ち払うショウとミシャラ

「息が合っている」

ミシャラが珍しく、感心したような声を出した。

「それは、鏡守にとって何よりの誉め言葉ですか」

「さあ、どうでしょう。……ただ、これほど長く鏡を守ってきて、こうも噛み合う相手にはそういなかった」

「なぜ、いつも先に出るのですか」

ある夜、詰所への帰り道、ショウがそう尋ねると、ミシャラはしばらく黙ってから短く答えた。

「九百年、ここに立ち続けてきました。……今さら退く理由がない」

その口ぶりに、ショウはこれまで出会ってきた誰の姿も、そこに重ねずにはいられなかった。傍らを歩くリオは何も言わず、ただショウの手から震えの残る手鏡を、そっと取り上げた。

◆

界暦六千九百五十年を過ぎる頃には、鏡の仕組みは渦の淵沿いの前線一帯に行き渡るようになっていた。曇りの多い夜も少ない夜も、鏡守たちの手元には必ず手鏡があった。

「里ごとに戦うだけでは足りない、と言ったのはお前だったな」

夜の見張り台で、リオがふと思い出したように言った。ショウはその一言に、遠い群発の夜の記憶を静かに手繰り寄せた。

「あの頃は、まだ絵空事だと思われていた」

「今は違うだろう」

リオの声には確かな手応えがあった。ショウはそれに応えるように、遠くの西の空を見やった。かすかな狼煙の煙が風に流されていくのが見えた。歌合の会が境界の外れに新たな拠点を築き、歌を北の境まで中継してくれるようになったのも、この三十年の間のことだった。誰に頼まれたわけでもなく、ローエンの後継が自ら申し出たのだという。

界暦六千九百八十年、ついに四つの地すべてを結ぶ仕組みがひとつに繋がった。西の篝火が灯れば東の歌がそれを渡し、北の鏡がそれを受け、中央の広場にまで届く。九百八十年の歳月をかけて、誰も成し得なかったことが、ようやく形になった瞬間だった。

その報せが北の地に届いた夜、鏡守の詰所には珍しく笑い声が絶えなかった。若い鏡守たちが手鏡を掲げては、遠い西の光を捉えようと代わる代わる氷の回廊に立った。ミシャラはその様子を、詰所の入り口からしばらく黙って眺めていた。

四つが繋がった夜、手鏡を掲げて喜ぶ若い鏡守たちを、入り口から見守るミシャラ

「あの子たちは、まだこれがどれほどのことか、わかっていない」

「わからないままでいい。……わかっていたのは、こちら側だけで十分です」

ショウがそう言うと、ミシャラは小さく息を漏らすように笑った。

「ここまで来たなら」

ミシャラが鏡守の詰所で、ショウに向き直った。

「もう、名だけを付けていない状態はおかしいでしょう。この繋がりに正式な名を」

ショウはその提案に、しばらく言葉を返せなかった。名をつけるということは、この仕組みが一時のものではなく、これから先も続いていくものだと正式に認めることだった。

「四つの里が正式に手を組む、ということですね」

「はい。……そのための集まりを開きたいと思っています」

リオがその話を横で聞きながら、口を挟んだ。

「呼ぶなら、四つとも呼ばなければ片手落ちだろうな」

「もちろん、そのつもりです」

ミシャラはそう言うと、初めて口の端に微かな笑みを浮かべた。

その夜、見張り台でリオと二人、久しぶりに火を囲んだ。

「名がつくと、何かが変わるのか」

リオがそう聞いてきた。ショウはしばらく考えてから答えた。

「わからない。……ただ、西の鍛冶場も東の森も、ここも、もう二度とあの群発の夜のようには戻らない気がする」

「それは良いことだろう」

「ああ。良いことだ」

ショウは火にくべた薪が爆ぜる音を聞きながら、これまで渡り歩いてきた四つの地の顔ぶれを一人ずつ、頭の中で思い返した。ガドンの無骨な笑み、ローエンの寡黙な佇まい、ジンの負けん気の強い目。そのどれもが、この名の中に確かに息づいているはずだった。

◆

界暦六千九百九十年頃、四里の代表——エドニマウ、ガドバルム、フェリューン、そしてミラシュカ——へ揃って集うようにという招集が、北の地から発せられた。書状は鏡守の会の名で、四つの方角へそれぞれ送り出された。

書状に押す封蝋を溶かしながら、ショウの手は柄にもなく強く震えた。九百二十年近く前、瓦礫の上で覚えたあの小さな予感の輪郭が、封蝋の熱と共に指先にはっきりと戻ってくる気がした。

書状を送り出す準備は、思っていたより長くかかった。四つの方角それぞれに道に慣れた使者を選び、荷を整え、途中の里で足止めされぬよう鏡守の会の印を押した通行の証まで用意した。ミシャラはその一枚一枚に自ら目を通した。

「西と東は、道を知っている者を選びました。中央への道は、ここ数十年誰も通っていない。……多少遠回りになるかもしれません」

「構いません。届きさえすれば」

ショウがそう答えると、ミシャラは小さく頷いた。荷造りを終えた使者たちが詰所の前に並んだ朝、空はよく晴れていた。

「返事は、いつ頃届く」

ショウが尋ねると、ミシャラは遠ざかる使者たちの背を見送りながら、静かに答えた。

「早ければ季節が変わる前には。……遅くとも、雪が二度積もる前には」

使者たちの姿が、それぞれ異なる方角の地平線に小さく消えていった。ショウはその後ろ姿をいつまでも見送っていた。西へ向かう使者の足取りは、かつて自分がドワーフの山を目指して歩いた道を、そのままなぞっているように見えた。

四つの方角へ向かう使者たちの後ろ姿を、雪原の集落の縁でいつまでも見送るショウ

その夜、詰所に戻ったミシャラは、渦の淵の方角を長い間、黙って見つめていた。

「どうかしましたか」

ショウが声をかけると、ミシャラは我に返ったように、こちらを向いた。

「……いえ。ただ、九百年見てきても、あの淵の奥については、まだ何も分かっていない。それだけが少し引っかかっています」

ショウはその言葉に、かつて西の火床跡で覚えた理由のわからない胸騒ぎを、ふと思い出した。あの時も誰も、それが何であるかをはっきりとは説明できなかった。

「四つの里が揃えば、何かわかるかもしれません」

「そうであれば、いいのですが」

ミシャラはそれだけ言うと、手鏡を静かに懐にしまった。その横顔には、これまで一度も見せたことのない拭いきれない翳りが差していた。

(第17話「四里の盟」へ続く)

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