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第一部『希望の灯』

ツキノワ 第18話「凪の底」

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界暦七千年、鏡の回廊に何事も起きない日が続いた。

四里の盟が各地に灯した篝が、夜ごと静かに燃え続けていた。まもの討伐の報せは、これまでになく穏やかな頻度に落ち着いていた。詰所の若い鏡守たちは、久しぶりの平穏に稽古の合間、あくびを噛み殺すようになっていた。ショウの喉の奥だけが、その緩んだ空気の中でもいつも通りには緩まなかった。

「静かすぎると思わないか」

見張り台で、リオにそう漏らしたことがあった。

「静かなのは、いいことだろう」

「ああ。……それでも」

ショウはその先の言葉を、うまく続けられなかった。ただ指先が理由もなく、時折ひやりと冷たくなる感覚だけが、その年の間ずっと消えなかった。

四つの里からは、代わる代わる平穏を告げる文が届いた。西の鍛冶組合からは、篝火の薪の備蓄が過去最多になったという知らせ。東の歌合の会からは、若い歌い手が一人、また一人と一人前になったという便り。中央の手合わせ衆からは、稽古試合の勝敗を書き連ねただけの他愛のない報告。ショウはその一枚一枚に目を通しながら、これほど穏やかな年をこれまで一度も経験したことがなかったことに、あらためて気づかされた。書状を束ねる紐の結び目だけが、いつもより固く几帳面に締められていた。

ミシャラも、この年ばかりは渦の淵の前線に立つ回数が、目に見えて減っていた。

「曇りの数まで、減っているようです」

ある日、ミシャラが詰所でそう報告した。その声にはいつもの慎重さの奥に、わずかな安堵が滲んでいた。ショウはそれに頷きながらも、胸の底にわだかまる名づけようのない予感を拭いきれずにいた。

◆

その日、ミシャラは珍しく朝から詰所の外に出ていなかった。手鏡を並べ、一枚一枚丹念に磨いていた。

「何を、そんなに気にしているんですか」

ショウが尋ねると、ミシャラは鏡面を布で拭う手を止めずに答えた。

「昨夜、月が鏡の中で、いつもと違う揺れ方をしていました」

「揺れ方、というのは」

「うまく言えません。……ただ、こんな揺れ方はこれまで一度も見たことがありません」

ミシャラの声には、これまで聞いたどの報告とも違う硬さがあった。ショウはその硬さに、遠い日、西の火床跡で覚えた覚えのある胸騒ぎをふと思い出した。あのときも誰も、それが何であるかをはっきりと言い当てられなかった。

「記録には、残しておきます。……気のせいであれば、それでいい」

手鏡を磨きながら不安を漏らすミシャラと、それを見つめるショウ

ミシャラはそう言うと、磨き終えた手鏡を一枚ずつ丁寧に棚へ戻していった。その手つきは、いつもよりほんの少しだけ慎重すぎるように見えた。

リオも、その日はいつになく口数が少なかった。夕刻、詰所の外で薪を割る手を止め、しばらく南の空を見上げていた。

「どうかしたか」

ショウが声をかけると、リオは少し遅れて振り向いた。

「いや。……なんとなく、な」

それ以上、リオは何も言わなかった。ただその晩、二人が見張り台に立つ番になったとき、リオの視線はいつもより長く、南の方角に留まっていた。

その夜、詰所の見張り番が悲鳴に近い声を上げた。

「空が……!」

ショウとリオ、ミシャラが同時に外へ飛び出した。夜空を仰いだ瞬間、ショウの息が喉の奥で止まった。

月が大きく歪んでいた。丸いはずの輪郭が、鏡面のひび割れのように幾筋にも裂けて見えた。氷の街全体がその異様な光を映し込み、辺り一面が金色に濁ったまま波打っていた。詰所の窓という窓に、同じ歪んだ月が幾重にも映り込んでいた。

「あれは……」

鏡面のひび割れのように裂けた月を仰ぐショウ・リオ・ミシャラ

ミシャラの声が初めて、明らかに震えていた。手にした鏡を握る指の関節が白く浮き上がっていた。

歪んだ月の輪郭に、一本、また一本と亀裂のような筋が走った。まるで巨大な鏡面そのものが限界まで引き絞られた末に、砕ける寸前であるかのようだった。ショウはその光景から目を離せなかった。

◆

南——その方角に、ショウは覚えがあった。幾つもの生を経てなお忘れられない、最初の目覚めの地。あの朽ちた貯蔵所も、まだあの空の下にあるはずだった。次の瞬間、遠く南の空——かつて灯の民が暮らしていたという、あの無人の地の方角から、黒く染まった何かが堰を切ったように噴き出した。

まず光が消えた。歪んだ月の輝きが一瞬にして、南の空に呑み込まれるように陰った。続いて地鳴りにも似た轟音が、時を置いて届いた。ショウの足元、氷の大地そのものが大きく揺れた。詰所の窓が次々と音を立てて震えた。

噴き出したものは、一つや二つではなかった。数えきれないほどの黒い影が夜空を埋め尽くすように広がり、四方八方へ散らばるように飛び去っていった。翼とも触手ともつかない輪郭が幾重にも折り重なりながら、闇そのものを引きずるように広がっていく様は、これまで出会ったどの獣とも明らかに異なっていた。輪郭の奥、それぞれの影の中心に、かつて見た曇りの琥珀色とは違う濁りきった暗い光が、ぽつりぽつりと灯っているのが見えた。

「篝の網に、報せを」

ミシャラが上ずった声を、無理やり張り上げた。

「西にも、東にも、中央にも……! 今すぐに!」

その声に押されるように、詰所の中が一斉に動き出した。誰かが鐘を鳴らし、誰かが装備を担ぎ、誰かが指先をもつれさせながら書き付けの紙を掴んだ。

若い鏡守たちが我に返ったように、手鏡を掴んで走り出した。だが、その手つきはこれまでの訓練のどれとも違い、明らかに浮足立っていた。一人が氷に足を取られて転び、鏡を取り落とした。別の一人がそれを拾い上げる間も惜しんで、先を急いだ。

詰所の外では、遠く西の方角にこれまでにない速さで、篝火が次々と灯されていくのが見えた。東の空からも切迫した歌声が、途切れ途切れに風に乗って届いた。四つの仕組みが初めて同時に、悲鳴のような速さで動き始めていた。

ショウはその光景を、ただ立ち尽くしたまま見ていた。九百二十年前、瓦礫の上で覚えた小さな予感、西の火床跡で覚えた覚えのある不安、渦の淵で覚えた胸騒ぎ——それらすべてが指先の同じ場所を、順番に押していくような感覚があった。押されるたび、その場所はこれまでよりも深く鈍く痛んだ。

「これほどのものが、あの淵の奥に……」

隣で、ミシャラが掠れた声を絞り出した。これまでどんな夜も動じなかったその声が、これほど頼りなく響くのを、ショウは初めて聞いた。

「ショウ」

リオがショウの腕を、痛いほど強く掴んだ。

「これは、今までのどれとも違う」

「わかっている」

答えるショウの喉からは、思うような声が出なかった。九百二十年、いくつもの生を渡り歩いてきたが、これほど言葉が形にならなかったことは一度もなかった。夜空を覆う黒い影の群れは、いまだ勢いを緩めることなく次々と、四方の空へ吸い込まれていった。かつて誰も見たことのない規模の、暗い奔流だった。

篝の網が初めて試される夜だった。だが、この網がこれほどの規模を想定して編まれたものでないことは、誰の目にも明らかだった。西の狼煙も、東の歌も、中央の伝令も、これほどの数を同時に捉える仕組みではなかった。

ミシャラが手鏡を握る手に、爪が食い込むほどの力を込めた。

「四つの里に、伝えなければ。……これが、始まりに過ぎないのなら」

その一言に、ショウの背筋が冷たく凍りついた。渡り歩いてきたどの生でも、覚えのない冷たさだった。手にした剣の柄を無意識に握り直していた。

黒い影の一つが、ひときわ大きく膨れ上がり、氷の回廊の上空を低く旋回し始めた。その輪郭が月明かりを一瞬遮り、詰所全体を深い闇に沈めた。低い唸り声が、これまで耳にしたどの獣のそれよりもはるかに近くまで届いた。

旋回する影の中心、濁った暗い光がふいに地上へ向いた。まっすぐに、ショウたちの立つ詰所の屋根を捉えていた。

南の空から噴き出し、詰所を襲う無数の黒い影

「来る……!」

誰かの叫びをかき消すように、影が翼を大きく畳んだ。

(第二部『狂乱の黒炎』へ続く)

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