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第二部『狂乱の黒炎』

ツキノワ 第19話「黒炎、来たる」

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影が翼を畳んだ次の瞬間、それは矢のように詰所の屋根へ突き刺さった。

木材が悲鳴じみた音を立てて弾け飛んだ。屋根板の破片が雪明かりの中を舞い、ショウの頬をかすめて過ぎた。

「伏せろ……!」

誰かの叫びと同時に、ショウはリオの襟首を掴み、氷の床へ共に転がり込んだ。頭上を、焦げたような臭いを纏う風が一陣、唸りを上げて通り過ぎていった。

破れた屋根から現れた黒い影と、氷の床に伏せるショウ

顔を上げると、屋根に空いた穴の向こうに、あの濁った暗い光がのぞいていた。翼とも触手ともつかないものが、破れた屋根の縁に絡みつくように蠢いている。

「篝火の術は……」

若い鏡守の一人が、震える手で印を結びかけて凍りついた。西の鍛冶組合仕込みの、曇りを退ける常套の術式だった。だがその手から放たれた小さな火の粒は、黒い影の表面に触れた途端、音もなく吸い込まれるように消えた。

「効かない……!」

悲鳴じみたその声に、詰所全体の空気が凍りついた。

◆

「歌を、歌合の節を試せ!」

ミシャラが叫んだ。東の歌合の会から伝わる、曇りを鎮めるための旋律だった。だが節を紡ぎ始めた歌い手の声は、影の唸りにかき消されるようにたちまち埋もれていった。

「駄目です……! 声が、届く前に呑まれる……!」

ショウは剣を握り直しながら、氷の床を蹴って影の輪郭へ斬りかかった。手応えはあった。だが刃先が触れた場所は、ただ黒く陥没するだけで、他のどの獣にもあったはずの肉の抵抗がまるでなかった。

手応えのないまま黒い影へ斬りかかるショウ
傍らでは、リオが弱った鏡守たちを影の射程から次々と引き剥がし、氷柱の陰へ運び込んでいた。剣を握るより先に、まずは逃す。その判断だけは、どの生でも変わらなかった。

「これは、曇りじゃない」

ミシャラの声が、これまでにない硬さを帯びていた。

「曇りより、もっと……狂っている」

その一言が、詰所に居合わせた誰の口からともなく、繰り返されるようになった。

「黒い、狂った炎みたいだ……」

若い鏡守の一人が、震える声でそう漏らした。誰もそれを否定しなかった。

◆

戦いがどれほど続いたのか、ショウには数える余裕がなかった。気がつけば、影は来たときと同じ唐突さで、南の空へ引くように去っていった。破れた屋根の穴から差し込む月明かりだけが、静けさを取り戻した詰所を照らしていた。

倒れた鏡守が何人か、氷の床にうずくまったまま動かなかった。傷らしい傷はどこにもなく、ただ影に触れられた指先から、体の芯の熱を吸い取られたように、深く冷えきっていた。誰かがその名を呼ぶ声だけが、しばらく響いていた。

ミシャラは手にした鏡を握りしめたまま、南の空をじっと見据えていた。

「これが、始まりに過ぎないのなら……次はもっと、来る」

その声に、ショウは何も答えられなかった。ただ指先に残る、剣越しに伝わったあの感触のなさだけが、いつまでも消えなかった。

遠く氷の地平の向こう、まだ見ぬ南の無人の地の方角を、ショウは長いこと見つめ続けていた。

氷原に立ち、南の地平線を見つめるショウ

(第20話「戸惑いの夜」へ続く)

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