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第三部『銀月、還る』

ツキノワ 第36話「名乗らぬ客」

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渦の淵の見張り小屋で、古い記録を洗い直す作業が続いていた。ミシャラが持ち込んだ資料の山を、ショウも手伝って一枚ずつ確かめていった。九百年分の記録は、思っていたよりも断片的だった。

◆

「その紙の束、扱いには気をつけた方がいい」

不意に声がかかった。見張り小屋の入り口に、旅装の一人が静かに立っていた。歳の頃も、素性も、一目では読めなかった。外には幾人もの鏡守が見張りに立っていたはずなのに、足音ひとつ、衣擦れの音ひとつ、誰も気づいた様子がなかった。まるで、空間の隙間からそのまま滲み出たかのようだった。

声がした瞬間、ショウは反射的に剣の柄へ手をかけていた。ミシャラも、資料の山を庇うように、素早くその前へ立ち塞がった。歴戦を潜り抜けてきた二人の、ほとんど本能に近い反応だった。だが、その人物は、殺気立つ二人を意に介した様子もなく、ただ静かに佇んでいた。

「誰だ」

ミシャラが、警戒を解かないまま問うと、その人物はわずかに頭を下げた。

「名乗るほどのものではありません。ただ、その記録の一部に、誤りがあることをお伝えしたくて」

「誤り、とは」

「渦の淵の見張りが始まった年代です。あなた方が思っているより、ずっと古い」

ミシャラの目が、鋭くなった。

◆

「どこからその話を」

「私どもは、古くから、記録を守る役目を負っています。……それだけで、今は充分でしょう」

それ以上は、名も、出自も語らなかった。ただ、懐から一枚の古い紙片を取り出し、ミシャラに手渡した。紙には、見たことのない古い文字が並んでいた。

「読める者が、いずれ現れるはずです。今日はそれだけ、お伝えに来ました」

そう言うと、その人物は踵を返し、来た道を戻っていった。呼び止める声にも、振り返らなかった。

◆

「何者だと思う」

ショウが問うと、ミシャラは紙片を見つめたまま、しばらく答えなかった。

「……分からない。ただ、九百年、渦の淵を見てきて、こんな接触は初めてだ」

紙片に並ぶ文字は、鏡守の会のどの記録にも見当たらない形をしていた。ただ、その古びた紙の隅に、小さく描かれた鏡のような紋様——今の鏡守たちが使うものよりも、ずっと角ばった鋭い線で刻まれた意匠——だけが、どこか見覚えのある気がした。

名乗らぬ客が残したものは、答えではなく、新しい問いだけだった。それでも、ショウは、初めてこの数月の間で、何かが動き始めた予感を覚えた。

(第37話「血の請願」へ続く)

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